第1話 婚約者を捨てた日
三年前、私は婚約者を捨てた。
嫌いになったわけでも、他に好きな人ができたわけでもありません。
好きだったからこそ逃げてしまった美桜と、何も知らないまま置き去りにされた怜司。
これは、終わったはずの婚約から始まる、再会の恋の物語です。
三年前、私は婚約者を捨てた。
嫌いになったからではない。
他に好きな人ができたからでもない。
ただ、彼の母に言われたのだ。
「あなたは、怜司を幸せにできますか」
その一言に、私は答えられなかった。
答えられないまま、彼の未来まで怖くなった。
だから、逃げた。
白石怜司は、大学病院に勤める医師だった。
真面目で、少し不器用で、誰かの痛みに鈍感なふりをしながら、結局いつもいちばん最初に気づいてしまう人だった。
怜司と出会ったのは、大学病院の近くにある小さなカフェだった。
当時の私は、東京に出てきたばかりだった。派遣の事務をしながら、週に何度か、そのカフェで夕方から閉店まで働いていた。
怜司は、いつも閉店の少し前に来た。
「ホットコーヒーをひとつ。砂糖はいりません」
それだけ言って、会計を済ませる。
笑顔もない。
世間話もしない。
受け取ったコーヒーを片手に、病院の方へ戻っていく。
最初は、冷たい人だと思っていた。
けれど、ある雨の日だった。
店の前で、傘を差した高齢の女性が足を滑らせた。
私はカウンターの内側で声を上げることしかできなかった。
そのとき、店を出ようとしていた怜司が、持っていたコーヒーを床に置き、迷わず外へ飛び出した。
「頭は打っていませんか。痛むところはありますか」
声は低く、落ち着いていた。
さっきまで無表情だった人とは思えないほど、まっすぐだった。
雨で髪が濡れても、スーツの袖が汚れても、怜司は少しも気にしなかった。
救急車を呼ぶほどではないと判断してからも、彼は女性が迎えのタクシーに乗るまでそばにいた。
店に戻ってきたとき、私は慌てて新しいコーヒーを差し出した。
「さっきの、冷めてしまったので」
怜司は少し驚いた顔をした。
「いいんですか」
「はい。怪我人を助けた人への、店からのサービスです」
そう言うと、怜司は初めて少しだけ笑った。
「それなら、ありがたく」
その笑顔が、思っていたよりずっと柔らかくて、私は困った。
冷たい人だと思っていた。
でも違った。
怜司は、必要のない言葉をあまり持たないだけだった。
それから、怜司は少しずつ話すようになった。
「今日は遅いんですね」
そう言ったのは、私の方だった。
「外来が長引きました」
「大変ですね」
「美桜さんも、閉店まで大変でしょう」
私の名前を覚えていたことに、胸が小さく跳ねた。
「名札、見ました?」
「はい」
「覚えるほど、見てました?」
冗談のつもりだった。
けれど怜司は真面目に考え込んでから、
「たぶん」
と答えた。
その不器用さが、妙に可愛かった。
交際が始まってからも、怜司は劇的に甘い言葉をくれる人ではなかった。
けれど、約束は守った。
言葉にできない不安にも、気づいてくれた。
私が「大丈夫」と言っても、本当に大丈夫ではない時には、黙って隣に座ってくれた。
一度、私はひどい風邪をひいたことがある。
怜司は夜勤明けだった。
寝ていないはずなのに、コンビニのお粥とゼリーとスポーツドリンクを買って、私の部屋まで来てくれた。
「医者なのに、すること普通だね」
熱でぼんやりした頭でそう言うと、怜司は体温計を差し出しながら言った。
「普通のことを、ちゃんとするのが一番効く」
「診察っぽいことは?」
「必要ならする」
「必要じゃないなら?」
「寝てろ」
そっけない言い方なのに、体温計を受け取る手は優しかった。
私が眠るまで、怜司はベッドのそばに座っていた。
白衣ではなく、少し皺の寄ったシャツ姿で。
医師ではなく、ただ、私の好きな人として。
私は、そんな怜司が好きだった。
好きで、好きで、好きすぎて、怖くなった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
美桜はなぜ、好きだった怜司の前から姿を消したのか。
次話では、彼女が答えられなかった「ある一言」が明らかになります。
続きも見守っていただけたら嬉しいです。




