問9.新生活
心臓をつかまれたみたいに立ち尽くす。
彼の手には、私が贈るべきか最後まで悩んでいた刺繍ハンカチが広げられている。紫の糸で丁寧に縫った彼のイニシャルが、陽光に照らされてしまっていた。
「——これって?」
彼がハンカチをじっくり見つめながら尋ねる。刺繍と同じ紫の瞳がイニシャルをなぞるように動くのを見て、顔が沸騰したみたいに熱くなった。
「えっと、あの、これは……」
(ど、どうしよう……なんでハンカチまで一緒に出してしまったんだろう)
プロミスリングと刺繍ハンカチを同じ袋に入れていたことを今さら後悔した。
心の準備がないまま見られてしまった気まずさに、居たたまれなくなる。なんて答えればいいのか分からず、口から出るのは意味のない言葉ばかりだ。
「にゃん?」
足元でリーフが不思議そうに私を見上げた。金色の瞳がキラキラ光り、思わずその小さな体を抱きしめる。もふもふの毛並みから漂う花の香りに、動揺していた気持ちが少しずつ落ち着いてきた。
「あの、イヤリングのお礼にと思って、イニシャルを刺繍したんです。受け取ってもらえたら、嬉しいです……」
ようやく出てきた言葉。カイルが一瞬目を瞠り、片手で口元を覆う。彼の耳がほんのりと赤く染まっている気がした。
「……ありがとう。ローズマリーが作ってくれたなんて、すごく嬉しい。一生大切にするよ」
「そ、そんな大げさです……」
はにかんだ笑顔を向けられて、心臓に負担がかかる。
(そんな顔するなんてずるい。自分の顔の良さを自覚してほしい……)
カイルのあまりの嬉しそうな様子に、迷惑かもしれないと思っていた私の心が軽くなる。それに、まるで宝物のようにハンカチを折り畳む彼の手つきを見ていると、なぜかドキドキが止まらなかった。
「にゃああ」
「あっ、ごめん」
リーフが身をよじって腕から抜け出し、足元の草むらに下りた。残り二本のプロミスリングが置いてある布袋のすぐ隣に座り、毛繕いを始める。自由なリーフを見ていると肩の力が抜けていく。
「もしかして、首輪にしたのも俺のために作ってくれたの?」
「は、はい。冒険者の間で無事を祈るお守りとしてプロミスリングが流行っていると聞いて……でも、一本はリーフに使ってしまったんですけど……」
カイルに尋ねられ、私はリーフの首に巻かれたプロミスリングを見ながら頷いた。
「俺もつけていい?」
「は、はい……。太さがわからなくて三本作ったんですけど、二本のどちらか足首に合いそうですか?」
「優しいな。わざわざ三本も作ってくれたんだ」
カイルがにっこり笑い、二本のプロミスリングを手に取る。一本を試しに足首に巻くと、紫のビーズがキラリと光った。
「どうかな、似合う?」
(想像以上に似合ってて、格好いい……)
茶目っ気たっぷりの笑顔に、思わず胸がキュンとした。プロミスリングは彼の足にしっくりと馴染んでいる。
「は、はい……似合ってます」
満足げに頷いたカイルの手には、余ったプロミスリングが一本残っている。私が返してもらおうと手を伸ばすと、ひょいっとかわされ、にやりと笑われた。
「あの、それは、サイズが合わないから必要ないですよね?」
「いや、リーフに負けたくないからな」
「え……?」
意味がわからず首を傾げると、カイルが少し真剣な瞳で見つめてくる。
「リーフは男だぞ」
「そうなんですか?」
(こんな可愛いけど男の子なんだ。勝手に女の子だと思ってた……)
カイルが楽しそうに笑う。
「妻が他の男と仲良くしてたら、やっぱり嫉妬するだろう」
「っ!」
「だからさ、このプロミスリングは俺に二本欲しい。リーフに奥さんを取られちゃ困るからな」
「——ひゃ……、と、取られません!」
カイルの揶揄う笑顔をじとっと睨む。でも、彼のキラキラした紫の瞳と楽しそうな笑顔を見ていると、なぜか頬が緩んでしまう。つられて私もくすっと笑ってしまった。
「じゃあ、ストームバードの羽根を拾ったら、そろそろ帰ろうか」
「えっ。もしかして、わざと羽根を切ったんですか?」
「当然だろ。今日はローズマリーの素材採取の勉強に来てるんだからな」
「あ、ありがとうございます」
(さすがSランク冒険者だわ、すごい)
ストームバードの青い羽根を拾い集め、私はカイルとリーフと共に街へと歩き始めた。
歩きながら、今日の出来事を振り返る。
素材採取はもちろん、魔物との対峙、そしてリーフとの契約——初めてのことばかりだった。
カイルが連れてきてくれなければ、こんな一日を経験することはなかっただろう。胸に満ちる充実感を抱きながら、私は街を目指した。
§
カイルと初めて一緒に素材採取へ行った日から、一ヶ月が経った。
「リーフ、そろそろ行くよ」
「にゃ!」
リーフがキャットタワーの上から返事をする。このキャットタワーはストームバードの羽根の報酬で買ったものだ。窓から外の景色を楽しんでいたリーフが軽やかに床に着地する。
「……にゃう」
とてとて私の前までくると、前足でスカートの裾にちょんと触れた。金色の瞳で抱っこをねだられ、胸がキュンとする。
(もう、かわいい~~!)
「リーフ、抱っこ?」
「んにゃ」
抱き上げて、もふもふな毛並みに顔を埋める。爽やかな花の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、甘く優しい香りが肺に満ち、癒される。幸せの匂いだ。
「にゃにゃん?」
「大変、もう出掛けなきゃ。教えてくれてありがとう」
リーフの頭を撫でると、喉をゴロゴロ鳴らして金色の瞳を気持ちよさそうに細めた。従魔として契約したリーフは、私と一緒にギルドに出勤する。従魔と契約者はいつも一緒にいて、長時間離れないのが常識だと聞いた。
普通の猫だったら家に置いて仕事に行かなければならないので、一緒にギルドに行けるのは嬉しい。この一ヶ月、リーフの毛並みをブラッシングしたり、夜に一緒に寝る日常がすっかり馴染み、私の生活を明るく彩ってくれている。
(もうリーフのいない生活には戻れない)
鍵を掛け、部屋を後にしてギルドに向かう。
初夏の爽やかな光が街路樹の葉を照らし、半袖のブラウスが肌に心地よい。風が軽やかに葉を揺らす中、リーフを抱いてギルドまで歩いた——
ギルドに到着し、魔法水晶にギルド証をかざして出勤する。作業用エプロンを身につけ、素材鑑定をする作業台や魔道具の朝の準備をはじめた。
鑑定用の拡大鏡や魔力測定器を布で丁寧に拭き、素材の硬度を測るハンマーや毒を判定する試薬瓶を作業台に並べる。最後に買取内訳書を補充して準備完了。
「朝の用意はこれで大丈夫ね」
「にゃん」
フロアで遊んでいたリーフの鳴き声に振り向くと、仕事を教えてくれている鑑定士のノヴァさんが作業台の向こうから顔を出したところだった。
ドワーフの血を引くがっしりした体格のノヴァさんは、ぶっきらぼうな見た目とは裏腹に動物に優しい。リーフがノヴァさんの足元に寄って体をすり寄せる。
「ノヴァさん、おはようございます」
「おう。おはよう、ローズマリー。リーフ、お前さんも早いな」
「にゃおん」
ゴツゴツした手がリーフの背中を優しく撫でると、喉をゴロゴロ鳴らして満足げに目を細める。
「相変わらず可愛い奴だな。お前さんのおかげで作業場が和むぜ」
「にゃーお」
リーフがノヴァさんの手に頭を押しつける姿に、思わず笑みがこぼれる。ノヴァさんはリーフを撫でながら、私を見上げた。
「ローズマリー、そろそろ服飾ギルドからブリーズウールの採取依頼が出る頃だぞ。今年ももこもこの袋がギルド中に溢れる季節がやってきたな」
「もうそんな季節なんですね……」
ブリーズウールは、別名『そよ風ヒツジ』と呼ばれる羊型の魔物だ。
山岳の風吹く谷間に生息し、毛が抜け替わる初夏に採取される。毛を紡いで糸にすると微風を感じられるため、貴族の正装や夏の洋服で需要が高い。だけど、集団で行動する臆病な性格なので、採取が難しい。
もこもこの詰まった袋がギルド中に所狭しと置かれるのは、初夏のギルドの風物詩だ。
「ローズマリー、ブリーズウールの毛を入れる袋を在庫棚から取ってきておいてくれ」
「はい、分かりました」
ブリーズウールの毛は、微風を無効化する特殊な繊維が練り込まれた袋に入れる。作業台の裏にある在庫棚に袋が見つからず、近くの棚も確認したがやはりなかった。
(ないわね。在庫棚にないなら地下の倉庫にあるはずだわ)
リーフとノヴァさんに一声かけて地下にある倉庫に向かう。階段を下りるとひんやりとした空気が肌を撫でる。魔法灯の淡い光が棚を照らし、さまざまな素材の匂いが混じり合った独特の雰囲気が漂う。
ギルド証をかざし、扉を開ける。
扉をそっと押し開けると埃っぽい空気が鼻をくすぐった。魔法灯の光が棚の間をぼんやり照らし、積み重ねられた木箱や袋から、乾燥したハーブや鉱石の匂いが混ざり合って漂ってくる。ブリーズウールの袋は、季節物のコーナーにあるはずだ。
「早く見つけて出よう」
小さく呟きながら、棚のラベルを一つずつ確認する。ようやく専用の袋の箱が積まれている目的の棚を見つけた。ほっと息を吐き、箱に手を伸ばして在庫数も数えておく。
(……全部で五箱か。採取依頼が本格化したらすぐ足りなくなるよね。ノヴァさんに追加発注がいくつ必要か後で確認しなくちゃ)
とりあえず今は、一箱持ち帰れば大丈夫なはず。箱を持ち上げようとした時、背後で物音がして心臓が跳ね上がる。
「あれぇ? ローズマリーさんじゃないですか~?」
振り返ると、そこには元彼モスの浮気相手だったリリーが立っていた。
(えっ、リリー……?)
先月の騒動の後、謹慎が明けて受付業務に戻っているはずのリリーが、なぜ倉庫にいるのだろう。突然の遭遇に頭が真っ白になった——












