問8.魔物
カイルの鋭い声と同時に、彼が私の肩を掴んで後ろに引く。私は思わずよろめきながら後ずさった。
泉の水面が激しく揺れ、強風が私に襲いかかる。嵐のような風が私を押し潰すように吹き荒れ、けたたましい鳴き声が空を切り裂くように響く。
(なに!? なんの声!?)
上を向くと、巨大な鳥が泉の上空を旋回していた。青い翼を広げると四メートルを超え、鋭い嘴と爪が陽光でギラリと光る。羽ばたくたびに突風が巻き起こり、木々の葉を激しく揺らした。
(お、大きい……! あの魔物はもしかして——)
恐怖で足がすくみ、動けなくなる。
「ストームバードだ!」
カイルが叫ぶ。大型の鳥型魔物のストームバードは、風を操る能力がある。森の奥に住む穏やかな魔物だったはずなのに。
領地にも魔物が出たが、こんな近くで魔物を見るのは初めてで、足が地面に縫い止められたように震えた。
「この辺りに出るなんて珍しいが、向かってくる以上、放っておけない! ローズマリー、木の陰に隠れて!」
「っ、は、はい……っ!」
カイルは視線を鋭くストームバードに向けたまま叫ぶ。鳥の青い目も私たちをじっと捉えていて、逃げても追ってくるだろう。カイルが私の前に立ち、盾になるように剣を構えた。私は走って近くの木の後ろに身を隠す。私は息を呑み、カイルの背中を見つめた。
(あんな巨大な魔物を、一人で倒せるの?)
ストームバードが急降下し、鋭い嘴がカイルを狙う。片側の鋭利な爪が大きくひらく。反対側の爪には、何か小さな生き物を捕まえているのが見えた。
(も、もしかして私たちも捕まえようとしているの……?)
私が心配する中、カイルが軽やかに身をかわして、剣を一太刀振ると青の羽が舞い散った。
「キキキキィア!」
ストームバードが怒りの鳴き声を上げ、翼を大きく羽ばたかせる。強烈な突風が泉の水面を波立たせ、木々の葉を巻き上げた。
風で視界が遮られる中、カイルが一気に距離を詰める。葉っぱや砂が舞う中、彼の剣が大きく振りかぶられるのがかすかに見えた。刃から放たれた剣圧が空気を切り裂き、鋭い音が響いた。
——バシンッ!
目に見えない衝撃波がストームバードの巨体を直撃し、宙を舞うように遠くへ吹き飛ばされていく。ストームバードが悲鳴を上げながら泉の向こう側の森の奥へと消え、木々の枝を折る音がかすかに響いた後、静寂が訪れた。あんなに激しかった風がピタリと止み、泉の水面が穏やかに凪ぐ。
「ローズマリー、怪我はない?」
カイルが剣を鞘に収めながら私のいる木の陰へと近づいてくる。息ひとつ乱れていないその姿に、思わず目を見張った。
(圧倒的な強さだった……! これがSランク冒険者の実力なんだ……すごい)
「……は、はい。大丈夫です」
カイルが私のすぐそばで立ち止まり、穏やかな声で尋ねる。紫の瞳に優しく見つめられ、ようやく胸をなでおろした途端、泉の脇の草むらがガサガサと音を立てた。
(……っ! な、なに!?)
心臓がドキンと跳ね上がり、思わずカイルの腕にぎゅっとしがみついた。
「あ、あそこ動いてます! また魔物……!?」
「落ち着いて、ローズマリー」
草むらから、小さな若草色の毛玉のようなものがふらふらと這い出てきた。
(な、なに……?)
私は息を呑み、目を凝らした。
「猫……?」
若草色の仔猫のような生き物が、弱々しく草の間から顔を覗かせていた。
「驚いたな——フラワーキャットだ」
「えっ……?」
「産卵時期のストームバードが、魔力の高い餌を求めて浅い森まで出てきたんだろう。フラワーキャットの花は魔力が強いから、こいつを追いかけてここまで来たんだな」
カイルの言葉に、以前学んだ魔物の知識が蘇る。フラワーキャットは、猫型魔物で葉っぱを思わせる若草色の毛並みと、尻尾に花が咲くのが特徴。尻尾の花は、高級香水の素材として重宝され、魔力を宿している。
「あ、あれ……? でも、尻尾に花がないですね」
「ストームバードに落とされた時に散ったんだろうな」
カイルが指差す草むらを見ると、黄色の花びらが散らばっていた。
「にゃん……」
弱々しく鳴きながら潤んだ金色の瞳でこちらを見上げる姿に、胸が締め付けられる。
(こんな可愛い子が捕まってたなんて可哀想……)
フラワーキャットの華奢な身体には、毛に滲んだ血が点々と見え、傷を負っているのが窺えた。
「大変! 怪我をしてます……っ」
駆け寄ろうとすると、カイルが私の腕を掴んだ。
「ローズマリー、弱っていても魔物に近づくのは危険だよ」
カイルの言葉に唇を噛む。仔猫のようで可愛くてもフラワーキャットは魔物だから手当てをする必要はない。でも——
(……この子は魔物だけど、魔物に襲われたんだよね……)
子爵領が魔物に襲われた日、傷ついた領民たちに子爵家を解放していた。その時の傷つき怯えていた領民の姿と、この小さなフラワーキャットの震えている姿が重なってしまう。
(この子を見てると、あの時の領民たちを思い出す……やっぱり他人事には思えない……)
「にゃん……にゃ、ん……」
ふらふらしていたフラワーキャットが、草むらの上でとさりと倒れた。
「あ、あの」
「どうしたの?」
(魔物を助けたいなんて呆れられるだろうけど……やっぱり目の前で魔物に襲われたフラワーキャットを放っておけない)
「フラワーキャットの怪我を手当てしたいです」
なぜかカイルは眩しいものを見たみたいに目を細めて微笑んだ。
「……ローズマリーは、あの時から変わらないね」
「え……? なんて?」
カイルの小さなつぶやきが聞き取れずに聞き直す。
「いや、なんでもない。俺が手当てするよ。魔力花がないから普通の猫と強さは変わらないはずだけど、万が一、襲ってきたら危険だからな」
「あ、ありがとうございます……。あの、これ使ってください」
私はリュックから応急処置用の布と軟膏を取り出し、カイルに渡した。彼はフラワーキャットの傷口を丁寧に洗い、血の滲んだ毛を拭き取り、傷薬を塗って包帯を巻いた。手際の良さに感嘆する。
「手当てがすごく上手なんですね」
「冒険者は怪我がつきものだから、慣れてるだけだよ」
血が滲んでいたフラワーキャットの小さな体は、きれいに手当てされ、呼吸も落ち着いてきたようだ。もふもふの腹がゆっくり上下に動いている。
「よし、手当ても終わったし、昼食にしようか」
「えっ、あの、ストームバードは大丈夫でしょうか……?」
「ああ、問題ない。吹き飛ばして気絶させたけど、さっき森の奥に帰っていくのを見たから大丈夫だよ。産卵時期のストームバードを倒すと番が報復にくるから追い返すのがいいんだ」
(え……? 帰っていくところなんて全然気づかなかった。さすがSランク冒険者、どんな状況でも周りをしっかり見ているんだ)
「……そうなんですね。安心したら、お腹空いてきました」
その後、私たちは泉のほとりに腰を下ろし、リュックから簡単な昼食の準備を始めた。カイルが手早く火をおこし、携帯用の鍋に水を沸かしてスープを作り始める。香ばしい匂いが辺りに漂い始めると、地面に横たわっていたフラワーキャットがピクッと動いた。
「にゃ……?」
小さな鼻をひくひくさせながら、フラワーキャットがゆっくりと体を起こす。
「起きましたよ……!」
金色の瞳がスープの鍋をじっと見つめ、ふらふらと近づいてくる。
「お腹空いているんでしょうか? あれ? でも、フラワーキャットって植物と同じじゃなかったですか?」
「ああ。太陽の光と水で生きている植物に近い魔物だったと思うが——食べたそうにしているな」
「……少しあげてみてもいいですか?」
カイルの同意を得てから、スープを皿に掬い、持ってきたサンドイッチを食べやすいように小さく切った。
「スープはまだ熱いから最後がいいと思うよ」
「にゃあん」
返事をするように鳴いたフラワーキャットがサンドイッチに口をつけた。
「…………普通に食べてますね」
「だな。もしかしたら魔力花が散ったから食べ物の摂取が必要なのかもしれないな」
二人で首を傾げているのに構わず、フラワーキャットはすごい勢いで食べ終え、私の手元に怯えた様子もなくすり寄ってきた。
「……にゃあ」
(か、かわいい~~! 本当に普通の子猫みたい……!)
ほとんど猫だと聞いた私はフラワーキャットの頭をそっと撫でた。喉をごろごろ鳴らして寛ぎはじめるフラワーキャットに口元が緩んでしまう。
「魔力がなくなっても、やはり魔物は回復力が違うな。これだけ食べられれば大丈夫そうだ」
私はホッと安堵の息をついた。
「よかったです。これなら仲間のところに戻れますね」
返事がないのでカイルを見る。少し難しい顔をした彼が言いにくそうに口をひらく。
「いや、野生で生きていくのは無理だと思う。フラワーキャットは尻尾の花に魔力が宿っているから、コイツは魔物としての力はほぼ失っている。花は一度散ると再生しないから、他の魔物や動物に襲われたらひとたまりもない」
「え……?」
私は思わず声を漏らし、フラワーキャットを見下ろした。普通の猫が魔物の住む森で生きていけるかと聞かれれば、無理だろう。胸が締め付けられるように痛んだ。
「そんな……せっかく助かったのに……。このまま帰るなんて……魔物だけど、この子を連れて帰れたらいいのに……」
カイルは少し考え込むように顎に手をやる。そして、ふっと優しい笑みを浮かべた。
「ローズマリーがフラワーキャットと従魔契約をすれば、連れて帰れるよ」
「従魔契約……?」
私が聞き返すと彼はひとつ頷き、説明を始めた。
「そうだ。従魔契約は、冒険者やテイマーが魔物と特別な絆を結ぶものだ。魔物を従わせて共に戦ったり、力を借りたりする関係を築くことができる」
「あの、私は冒険者ではないですけど……?」
思いがけない提案に目を瞬かせてしまう。
「誰でも契約を結べるんだよ」
「えっ。そうなんですか?」
「普通の人は魔物と契約する機会がないから、知られていないだけだよ。でも、ローズマリーがこのフラワーキャットを助けたいなら、従魔としてそばに置くのが一番安全だと思う」
フラワーキャットの小さな体をそっと見つめると、手のひらに頭を擦り付けてきた。もふもふの感触とほのかに漂う花の香りに決意を固める。
(……この子を放っておけない)
「私、この子と従魔契約したいです。どうすれば契約できますか?」
「契約の方法は、魔獣に名前を付けて呼びかけ、その子が受け入れれば従魔契約は完了だ」
「それだけなんですか?」
もっと難しいことをすると思っていたので、予想以上に簡単な方法に驚いた。
「強い魔物ほど契約に応じないから、難しいんだ。従魔を連れてる冒険者は少ないだろう?」
「確かに。強い魔物を従魔にするのは難しそうですね」
「そういうことだ。じゃあローズマリー、早速だけどフラワーキャットに名付けをしてみて」
「は、はい……」
(なんだか緊張してきた……この子は、どんな名前がいいだろう? あっ、そうだ。若草みたいな綺麗な色だから——)
「……『リーフ』という名前はどう? あのね、これから私と一緒に暮らしましょう」
「にゃあ!」
私はフラワーキャットの小さな体をそっと抱き上げ名前を伝えると、リーフの体がほのかに光り、胸のあたりに温かい感覚が広がった。まるでなにか見えない糸が私とリーフを繋いでいるような、不思議な感覚だ。
「——契約成立したみたいだな。念のためギルド証で確認してみるといい」
「見てみますね」
リュックからギルド証を取り出し確認すると、従魔の欄が追加され、フラワーキャットが記載されていた。私はリーフを抱きしめる。
「リーフ、よかった。これから一緒にいられるよ」
「にゃん」
リーフがごろごろ喉を鳴らしながら私の頬にすり寄る。柑橘系の爽やかさと甘さが混ざった香りが鼻をくすぐり、思わず笑みがこぼれた。
「よかったな。それから、従魔には契約の証として、契約者の持ち物を身につけさせるのが一般的だ。絆を深める意味もあるし、見た目でリーフが従魔だと分かったほうが他の人が安心する」
「私の持ち物……?」
「そうだ。ハンカチとかリボンとか……リーフの場合、首に巻けるものがいいと思う」
(首に巻けるもの……あっ、丁度いいのを持ってきたわ)
私はリュックのポケットを探り、布袋を取り出した。中身を広げ、中央の青いビーズがキラリと光るプロミスリングをリーフの首に当てる。
(これ、リーフにぴったりかも)
一番小さめのプロミスリングを選び、リーフの首に巻く。留め具を調整して、ゆるすぎずきつすぎないように気をつける。
「にゃん」
「うん、可愛い」
紫と紺の色合いが若草色の毛並みに映えて、よく似合っていた。
「これで、どうですか?」
私はカイルに振り返って尋ねた。
「うん、いいと思う——ねえ、ローズマリー、これはなに?」
「っ……!」
カイルが手に持っていたのは、私が彼のイニシャルを刺したあの刺繍ハンカチだった。彼がそれを広げてじっと見つめる姿に、心臓が大きく跳ねた。












