3.契約
仕事が終わったその夜。
私とカイルは、高級レストランの個室に座っていた。ギルドの重要な商談にも使われる店で、磨き上げられたテーブルの上には契約書が広げられている。
(いくらなんでも仕事が早すぎない!?)
今日突然持ちかけられた『契約結婚』の話を、数時間で整えて、こんなきちんとした場所を手配するなんて信じられない。私には縁遠い豪華な場所で、壁に飾られた絵画や輝くシャンデリアについ姿勢を正してしまう。
(……味が全然わからなかった)
次々と運ばれた洗練された料理の数々は、緊張で味わう余裕なんてなかった。ようやくデザートまでたどり着いた。紅茶のカップを手に取ったところでカイルが契約書を取り出す。こちらは心臓が飛び出そうなのに、カイルはくつろいだ様子で珈琲を口に運ぶ。
「ローズマリー、契約の内容を確認してほしい」
カイルの落ち着いた声に、私は動揺を見せないように頷く。
「……はい、わかりました」
私は契約書を受け取り、内容を一つずつ確認した。
カイルの祖母を安心させるため、夫婦のふりをする。一年後に白い結婚を理由に離縁する。
その報酬として、子爵家の借金の返済、弟の学費援助、そして素材鑑定士の講師を引き受けてくれることが書かれていた。
(……本当にすべての条件を書いてくれてる)
「あの、本当にこんな好条件でいいのでしょうか……?」
改めて契約書を読むと、報酬の大きさに指先が震えた。もちろん借金が返せれば子爵領の復興が進み、弟のテオにもやりたいことをさせてあげられる。それに、私の目標である素材鑑定士の資格取得も叶えられるけど——あまりにも出来すぎていて不安が言葉になってしまった。
「もちろんだ。こんなことは君にしか頼めない。俺を助けるつもりで引き受けてほしい」
(助けるといっても、こんな高額な報酬は……)
「でも、やっぱりもらいすぎな気がします……」
カイルは私をじっと見つめた。
「…………君は変わらないな」
「えっ? なにか言いましたか?」
「いや、何でもない」
(本当に私、夫婦のふりができるのかな……?)
カイルの気遣いに心が温まる一方、こんな重大な契約を今日決めてしまっていいのか、迷いが頭をよぎる。
「もしも他に条件があるなら言っていいからな」
「えっ……?」
(今でも好条件すぎるのに……あっ、でも……)
カイルと目が合うと、にこり、と微笑まれた。
「お願いしてるのは俺だから、なんでも言って」
「……えっと、職場では、この結婚のことを知られたくないんです。離婚後もギルドで働くつもりなので」
私はバッグからギルド証を取り出し、ローズマリー・ヴァンセルと名前が書かれた欄を指で示す。
「これまで通り旧姓の『ブルーム』を使いたいです」
ギルド証は偽装できないが、仕事の便宜上、旧姓の表示は認められている。上司の手続きが必要になるがギルド長がカイルだから問題ないだろう。
「…………問題ないよ」
(今の間は、なに?)
カイルが万年筆でさらさらと契約書に書き加えた。
「——ギルド証の旧姓表示は明日に手続きしておくよ」
「お願いします」
(あれ、眉間に皺が寄っている……? 声も不機嫌な気がするけど気のせい?)
「あの、ギルド長からは何かありませんか? 私ばかりお願いしているので……」
カイルが少し考えてから口元をふっと緩めた。
「——そうだな。役職じゃなく名前で呼んで欲しい」
「ええ!?」
考えてもいなかった要望に心臓が大きく跳ねた。
「『ギルド長』だと堅苦しいし、祖母に会う時に怪しまれるだろう」
(うっ……確かにそれはそうだけど……)
「二人の時だけでもいいから」
「それなら……」
「じゃあ、さっそく呼んでみてよ」
「な、なんで今!?」
目を丸くしてカイルを見つめる。彼は珈琲カップを置いて、にやりと笑う。まるで私の反応を楽しんでいるみたいだ。
「練習しないと、祖母の前で初めて呼ぶのじゃ困るだろう? ほら、名前で」
(いきなりなんて、心の準備ができてません~~っ!)
「……カ、カイル様……?」
私は頬が熱くなるのを感じながら、なんとか名前で呼んだ。カイルの目が少し細まり、嬉しそうな微笑みが広がる。
「様もなくていいんだけど」
「呼び捨てはできません……っ」
「恥ずかしがらなくていいのに——でも、これからは二人の時は名前呼びすること」
「……わかりました」
(どうしてそんなに楽しそうなんですか!?)
「じゃあ、次。ローズマリーはいつ俺の家に引っ越してくる?」
「へっ?」
(な、なにを急に言い出したの!?)
「夫婦なら一緒に住むだろ? 部屋ならいくらでもあるし」
「そ、そんなの……絶対無理ですから~~っ!」
思わず声を上げ、慌てて口を押さえた。顔がかあ、と熱くなる。カイルは真面目な顔を装いつつ、目が明らかに笑っている。
「夫婦に見えないと困るんだけど」
「べ、別々に暮らしても夫婦に見えるように頑張りますから」
「どうやって?」
「ど、どうやって!? そ、それは——け、検討します」
とうとう笑いを堪えきれなくなったカイルは肩を震わせた。
「俺の奥さんは可愛いね。いつでも部屋をあけて待ってるよ」
「~~~~っ」
(これ、絶対楽しんでるよね)
真っ赤な顔でじとりと睨むと、カイルは目を細めてくすくす笑う。
「俺からもそれくらいかな。契約内容を変更したいときはその都度相談しよう」
「……はい」
改めて契約書に視線を落とす。両親や弟、それに魔物に襲われる前の賑やかだった子爵領の様子が浮かぶ。これに署名すれば、みんな幸せになれる——
「…………あっ」
「ローズマリー、どうかした?」
「あの、家族には……どう説明しましょう?」
(どうしよう……いきなり結婚したなんて話したら、お父様が卒倒するかも……)
子爵領は、魔物の襲撃で荒れて復興に追われている。両親は家畜や農作物の世話もあり手一杯だ。
それに侯爵家のような高位貴族が、私のような子爵令嬢と結婚なんてあり得ない。まして婚約期間なしの急な結婚だなんて、大騒ぎになる。
(なんでこんな当たり前のことを今まで忘れていたんだろう)
カイルはカップを置き、穏やかに言った。
「それなら大丈夫。ローズマリーの実家には、侯爵家から正式な書状を送るように父に頼んでおいたから」
「えっ、侯爵家から!?」
貴族の正式な書状は、紋章と魔力封印を施した伝統あるものだ。使者が馬車で届けるため王都から離れた子爵領なら二、三日はかかるはず。侯爵家から書状が届いたなら受け入れるしかないだろうけど——
(それ、確実に両親がひっくり返るやつじゃないですか~~!)
「……私、明日の朝一番に魔法速達で手紙を送ります。侯爵家の書状が届く前に、せめて私の言葉で説明しないと……」
明日、目覚めたら真っ先に魔法速達で実家に手紙を送れば夕方には届くはずだ。両親は驚くだろうが、いきなり侯爵家から書状が届くより遥かにいい。
私の言葉にカイルは小さく頷くと、デザートのチーズケーキをフォークで掬った。
「そういえば、ブルーム子爵領の『フローラル・チーズ』は、祖母のお気に入りなんだ」
「えっ、うちのフローラル・チーズですか?」
「花の香りがするあのチーズは他国にもないからな。外務大臣の父も目を付けてて、国で支援する話も出てる」
私は目を丸くし、思わず身を乗り出した。
フローラル・チーズは、牛と魔獣を掛け合わせたブルーム・キャトルという家畜に、花の蜜を与えて作る。花のような甘い香りと濃厚で滑らかな味わいが特徴だ。まさかそんな評価を受けているなんて、嬉しさと驚きで、声が上ずってしまう。
「支援があれば、領地の復興も進む」
「国から支援が出るなんて……両親も絶対喜びます!」
「はは、父と兄にもしっかり伝えておくよ」
「お兄さん?」
「兄も外務院で働いてるんだ」
「そうだったんですね」
カイルは軽く笑い、チーズケーキを口に運んだ。
「それと、祖母には結婚のことを手紙で伝えたけど、急な話でも喜んでくれるはずだ。俺の両親も、祖母が絡むと柔軟に対応してくれるから心配いらない」
(いつの間にそんな根回しを……?)
「他に気になることがなければ、契約を結ぼうか」
カイルの準備のよさに頭がくらくらするけど、支援の話には胸が弾んでしまう。
(この機会を逃したらきっと後悔する)
深呼吸して気持ちを落ち着け、カイルをまっすぐ見つめた。
「……はい。お願いします」
「ローズマリーの決意に感謝するよ。では、契約を結ぼう」
カイルが二本の針が入った小箱をあけた。魔法契約に使用する針は痛みを感じない魔道具になっている。彼が指先に針を刺すと鮮紅の血が一滴、羊皮紙の上に落ちる。
(うっ。痛くないのは知っているけど……)
私も同じように針を刺す。血がぷくりと膨れ、二人の血が羊皮紙に吸い込まれると魔力紋が淡く光りながら浮かび上がった。
青と赤の光が絡み合い、複雑な紋様を描き、成約を示す。
「これで契約は成立だな」
カイルは満足そうに微笑み、頷いた。私は契約書に浮かぶ魔力紋を見つめる。胸の奥で、期待と不安がぐるぐると渦を巻く。
(でも、もう、夫婦のふりをするしかない!)
覚悟を決めて食べたチーズケーキの甘さが、口の中に広がった。












