2.提案
彼の家を飛び出すと、目の前には高級住宅街の静かな大通りが広がっていた。ギルドからわずか十分ほどの場所だ。
(ど、どうしよう!? これからも彼と会うかもしれないなんて! もう忘れたいのに……っ!)
私の混乱する気持ちとは裏腹に、朝の空はすっきり爽やかだ。誰にも会いませんようにと祈りながら歩いて自宅に帰った。貴族の未婚女性の純潔が昔より重視されなくなったとはいえ、未婚女性の朝帰りなんて外聞はよくない。
(あ~~全部なかったことにしたい~~~~!)
大通りから少し離れたこぢんまりした石造りの二階建てアパートに着いた。リネンのカーテンから朝日が差し込み、モスの武器の手入れ用具や、効率よく依頼を行うための資料をまとめたものが目に入る。ベッドにボフン、と倒れ込む。
モスとリリーのことも、酔った勢いで彼の家に泊まってしまったことも、全部夢だったらいいのに——
休みの内に、モスにまつわる物はすべて捨て、私物は配達と内容の証明ができる魔法宅配便で送った。そんな休日が明け、足取り重くギルドに向かう。
(行きたくないけど、しっかり働いて稼がないと……)
これからもモスとリリーと顔を合わせると思うと憂鬱だ。けれど、受付に彼女の姿はなくてホッと息を吐く。と、マリアが駆け寄ってくる。マリアは私の同僚で、モスと付き合っていたことを打ち明けていた数少ない相手だ。
「ローズマリー、聞いたわよ! モスがあんな酷い奴だったなんて! 別れて正解よ」
「……やっぱりみんな知ってるよね」
あの日が休みだったマリアが知っているのだから、皆に知れ渡っているのだろう。
「大丈夫よ! 副ギルド長が面白おかしく話を広げないよう職員に釘を刺しているの」
「そうなのね、あとで副ギルド長にお礼を言わなくちゃ」
(噂が広まってないなら、少しは楽かも……)
「リリーは素材整理で倉庫に回されたから、一週間は受付には来ないはずよ」
「正直、顔を合わせるのは気まずかったから助かるわ……」
「悪いのはあいつらなんだから、ローズマリーが気にすることないわ。胸を張っていたらいいのよ」
マリアの思いやりある言葉に目の奥がつーん、とする。
「それにね、新ギルド長の着任が早まったから、みんな頭がそのことでいっぱいよ」
「えっ、今日になったの?」
耳を澄ませば、ギルド中が新ギルド長の噂で持ちきりだった。「侯爵家の次男みたいよ」「元Sランク冒険者だって」 好奇心と期待に満ちた声が飛び交っている。
侯爵家は、王族、公爵に次ぐ高位貴族。Sランク冒険者も数多の冒険者の中でもほんの一握りしかなれない頂点に立つ存在。二つを合わせ持つ新ギルド長に色めき立つのもよくわかった。
(これなら色々聞かれずに済みそう……!)
自分から興味が逸れたことを新ギルド長に感謝しながら、今日中に処理する書類を仕分ける。
しばらくすると副ギルド長が新ギルド長を伴い、朝礼に現れる。新ギルド長がどんな人か気になったものの、他の女性職員がぐいぐい前に詰めていくのに押され、後ろで静かに紹介を聞いていた。
「新ギルド長に就任したカイル・ヴァンセルだ。みんな、よろしく頼む!」
(……っ!?)
声を聞いて驚き、皆の隙間から覗いた。濃紺の髪が朝の光に揺れ、アメジストのような紫の瞳がゆっくり職員を見渡している。
目の前にいるのは、一夜を過ごした彼に間違いない。
(う、嘘……! 新ギルド長だったの……!?)
「ギルド長は、Sランク冒険者だったから知ってる者も多いはずだ!」
「ははっ、腕試しする奴は覚悟して来いよ」
副ギルド長の声に、カイルが軽く手を上げて職員を和ませる。すると、彼と視線が交わり、ニヤリと笑われた気がして慌てて視線を逸らした。
(まさか、私のことを覚えている? いやいや、そんなわけない……!)
自分に言い聞かせ、心臓を落ち着かせる。
朝礼が終わり、依頼書類の処理を始めているとカイルから声をかけられた。
「ローズマリーは君かな?」
「は、はい、そうです!」
緊張で声が上擦ったが、カイルの口調はあくまで事務的でホッとする。
「君のまとめた魔物発生地域の記録や依頼達成率の分析、よくできてるね」
「ありがとうございます……!」
(やっぱり私のことは忘れているみたい……よかった……)
モテそうな彼はお持ち帰りもよくあるだろうから、地味な私のことを覚えているはずない。それにしても着任早々、過去の資料に目を通すなんて、噂通り優秀な人なのだろう。
「いくつか質問がある。急ぎの仕事が終わったら、すぐにギルド長室に来てほしい」
「わかりました」
書類の処理を済ませ、ギルド長室の扉をノックすると「どうぞ」と促される。部屋に入ると、カイルは肘掛け付きの椅子に座って資料を広げていた。
「待っていたよ」
「あの、質問というのは……?」
カイルが私のギルド証を差し出してきた。
「その前に、これ落としてたよ」
「っ! ありがとうございます! どこで失くしたのかわからなくて困っていたんです」
ギルドの主要な入り口にはギルド証をかざす魔法水晶が置いてあり、認証しないと受付や倉庫に行けない。今朝、受付に入ろうとしたらギルド証が見つからず、臨時身分証を発行してもらっていた。
手を伸ばすと、カイルがギルド証をスッと引っ込める。
「……え?」
「どこに落ちてたと思う?」
紫の瞳が楽しそうに細められる。知りたいような、知りたくないような。意地悪な視線に炙られる。
「ど、どこでしょうか……?」
「俺の部屋」
「っ、え……?」
「朝、君がいなくて驚いたよ」
「な、な、なんのことでしょうか……?」
カイルは座っていた椅子から立ち上がり、私に近づく。
「俺ね、記憶力はいいんだ。冒険者仲間からは酒豪って呼ばれていて、どれだけ飲んでも酔わないんだよ」
見上げた彼はにこりと笑う。
(っ! 目の奥が笑ってない……!)
これ以上、誤魔化すのは無理だと悟った。
「先日は大変申し訳ありませんでした! あの夜はかなり酔っていて……それで、私のギルド証を返して欲しいのですが……」
「――どうしていなくなったの?」
「そ、それは……」
(高級な部屋とあなたの格好よさに気後れしたなんて、言えない……!)
「まあ、こうやって会えたからいいけど。会えなかったら侯爵家の力を使って、草の根を分けてでも探し出すところだったよ」
「そ、それは、会えてよかったです……ははは……」
(ひっ、高位貴族……怖い……っ!)
顔をひきつらせた私に構わず彼は口をひらく。
「それで、元彼のことは吹っ切れた?」
「……っ!?」
「たった半年で後輩に乗り換えた、最低なクズ冒険者だっけ?」
(そんなことまで話したなんて!? もう二度とお酒は飲まない……!)
「でもまあ、もう過去の男は関係ないな。ローズマリーは俺の妻になったから」
「…………へ? 今、なんて……?」
「よく見て」
「ローズマリー・ヴァンセル……?」
私の名前は「ローズマリー・ブルーム」のはずなのに、差し出されたギルド証には『ローズマリー・ヴァンセル』と記載されている。頭が真っ白になった。
「言っておくけど、そのギルド証は本物だよ」
ギルド証を受け取ると、指先にひんやりした感触が伝わってくる。どれだけじっと見つめても、偽装不可能な魔力の紋章が淡く光っていた。
誰の体にも魔力は巡っていて、その血に魔力が宿る。私が血を滴らしてギルド証を作ったとき、この紋章が浮かび上がった。どんな魔法をかけたとしても、魔力の紋章は偽造できない。だから、このギルド証は間違いなく本物だ。
「どういうこと……?」
「まだ信じられない? 婚姻契約書の控えもあるよ」
カイルが取り出した婚姻契約書にも、やはり紋章が淡く光っている。さらに、カイルと私の自筆署名、保証人の欄も埋まっていた。ギルドから近い聖堂の司祭による祝福と受理を意味する押印も入っている。
この婚姻契約書も紛れもない本物だとわかり、背中に冷たいものが流れた。
「あ、ありえない! 本当に結婚したんですか!?」
「情熱的で忘れられない夜だったよ」
パチン、とウインクされて、頭を抱える。婚姻契約書を見てもあの夜のことを思い出せない。
私も酔っていたのは悪かったと思うけど、結婚はお酒の勢いでするものではないはず。まして、高位貴族のカイルが貧乏子爵家の私と結婚なんて、絶対にありえない——!
「……どうしたら無かったことにできますか?」
「無かったことにしたいの?」
「当たり前です!」
「俺は、君との結婚を無かったことにしたくない」
「なんでですか……!?」
カイルは困ったように両眉を下げる。
「実は、祖母が重い病気でね。死ぬ前に一目でいいから俺の花嫁に会いたいって願ってるんだ」
カイルの言葉に、一瞬言葉を失った。
「だから、花嫁のふりに協力してもらえない?」
「そ、それは……」
お祖母様がそんな状態なら、孫として最後に願いを叶えてあげたいと思うのは当然だ。それと同時に、地味な私と婚姻した理由がわかって、どこか納得もした。
(大切な人を喜ばせたいのはわかる。でも、嘘をつくのは……)
「急にこんな話を持ちかけて悪いと思っている。でも、祖母はもう長くないんだ。医者にも言われている。最後に、俺が幸せな家庭を築いてる姿を見せられたら、安心できると思って……」
カイルの声が一瞬途切れ、彼は視線を落とした。その痛々しい姿に、私の中にこれ以上拒むことに迷いが生まれる。
「……どうして私なんですか? ギルド長なら、どんなご令嬢でも選り取り見取りでしょう……?」
「そうだな。でも、俺の見た目や肩書きに寄ってくる者には興味はないから」
(でも、やっぱり騙すなんて……)
「——君にとっても悪い話じゃないと思うんだ」
「どういう意味でしょうか……?」
訝しむ私に、カイルは紫の瞳を細める。
「引き受けてくれたらブルーム子爵家の借金を支払うよ」
「ええ!?」
(ちょっと待って! 私、実家の借金のことまで話していたの!?)
「一年間の白い結婚なら婚姻を無効にできるから、期間限定の契約結婚——つまり形だけの雇用契約をしてもらいたい」
「でも……」
「大好きな弟……テオ君だっけ? 領地のために畜産の研究室に入るのが夢なんだろう。その費用も、契約結婚に協力してくれたら支払いに加えるよ」
(酔っ払ってテオの話までしていたの!? もう、本当に信じられない……!)
学園よりも専門的なことを学ぶ研究室は費用がかかる。子爵家の借金に加えて、研究室の費用まで払ってくれるなんて夢のようだ。
ぐらぐらと気持ちの天秤が揺れていく。私にカイルは続けた。
「あとは、素材鑑定士試験の勉強を教えてくれる講師がほしいんだよね?」
「……うっ、そ、そうです」
(ああ、もう! なにからなにまで話しすぎでしょ~~!)
「俺ね、冒険者だった頃にドラゴンも何頭か討伐してるし、貴重な素材はかなり持ってるよ。見分けの付きにくい薬草も自生地に連れて行って実地で教えてあげられるけど」
カイルが誘惑するように、にっこり微笑む。
今後、私には結婚する予定はない。モスで恋愛はもうこりごり。この先、借金や学費がなくなったあとも、一人で生きていける力が欲しい。
素材鑑定士の資格は、家族のためだけでなく自分のためにも取りたい——!
「本当に、私でいいんですか……?」
「……君だからいいんだ」
「わかりました。では、契約内容を書面にして契約しましょう」
「もちろんだよ」
顔を輝かせ、嬉しそうに笑う。
「……よろしくお願いします」
「ああ、よろしく! 奥さん」
(~~~~っ!? 今、奥さん呼びした!?)
カイルが嬉しそうに手を差し出す。私は不意打ちに火照った頬を隠すようにしながら、握り返した。












