問23.ギルド証
馬車に乗り込む直前、どうすればいいのか必死に考えた。
(このまま何もせずに連れ去られるわけにはいかない……。ここで拉致されたという証拠を残しておかないと——)
モスが視線を外した隙に、私は鞄からギルド証を素早く取り出し、車輪の下に滑り込ませた。奥へと滑り落ちるのを確認し、胸を撫で下ろす。
(ヴィクターさんなら、これで私が無理やり連れ去られたことに気づいてくれるはず……。モスのことを話していたから、きっと不自然に感じる)
今いる正確な場所はわからないが、自宅からもカイルの家からも離れているのは確かだ。ギルド証が見つかった場所を聞けば、ヴィクターさんなら私がここで何者かに連れ去られたことを察してくれるだろう。
「ほら、早く乗るんだ。まだ素直になれないなら……わかるだろ?」
リーフの首をなぞるのを見て、覚悟を決める。
「……わかったわ」
深呼吸をひとつして、モスの後に続いて馬車に乗り込んだ。
馬車に入った途端、甘くべったりとまとわりつく残り香が鼻を掠めた。
(この匂い……ヴェノムバインの香りじゃない……?)
ヴェノムバインは、魔物を呼び寄せる危険な香料だ。
シルバーバインという猫が好むつる性の植物から作られており、特に猫科の魔物に対して強い効果を発揮する。少量なら魔物を引き寄せる程度だが、濃度を高めると昏睡状態になる。魔物を集める香料を街中で使うなど、本来は考えられない行為だ。
「座らないと危ない。怪我をしたくはないだろう?」
低い声で急かされ、大人しく腰を下ろした。膝が触れ合うほど近い距離で向かい合い、逃げ場のない車内が息苦しく感じる。
モスが合図を送ると、馬車はすぐに動き出す。御者を見ると、肌の色や衣装が、この国のものとは明らかに違う。
「御者には何を言っても無駄だよ。あいつはこの国の言葉をほとんど話せない」
流れる夜の景色を視界の端で捉えた。
「……ヴェノムバインを使って、リーフを呼び寄せたのね」
膝の上で手を強く握り、声が震えないように私は口を開いた。
「ああ、さすがローズマリーだ。ヴェノムバインだとすぐに気づいたか。オレの隣に相応しいという証明を自らしてくれたんだな」
うっとり見つめられて、不快感に肌が粟立つ。
(ヴェノムバインの香りで眠っているなら、リーフの命に別状はないはず……)
「……約束は守ったわ。そろそろリーフを返して」
「慌てるな」
モスが低く笑って、こちらを見る。馬車は街の門を抜け、森へと入っていくのが見えた。
「待って! どこに行くの? ヴェノムバインの香りがする馬車で森を抜けるのは危険すぎる……」
「ラシードさんのところだ。魔物対策はしてある。大丈夫だ」
「そんな……」
(魔物寄せと魔物避けが同時にできるわけない……)
モスの言葉に不安が募るけれど、どうすることもできない。昼の森と違って、夜は魔物が活性化する時間だ。ヴェノムバインの香りがなくても夜に移動することは危険なのに。
「どうして、こんなことをするの……?」
「見返したかっただけさ。ギルドの奴ら、俺をずっと馬鹿にしてきた。あのクソ野郎どもに、俺が本物だって証明したかった。……ラシードさんが、俺を救ってくれた。あの人は俺の扱いが不当だと、悪いのは周りだとわかってくれた」
(なんて自分勝手なの……全部自分が招いた結果なのに、人のせいにしてばかり……)
モスはうっとり陶酔した目で語り続ける。でも、その様子は、異常にしか見えない。
ギルドへの逆恨みは理解できるとしても、一時期付き合っていたリリーの彼氏であるラシードに、ここまで心酔しているのが不自然に感じられた。
(……プライドの高いモスが、リリーに捨てられたのに、悔しさも怒りも感じていないの? それとも、その後の生活が大変すぎただけ……?)
視線を少しずらすと、モスの指に銀色の指輪が嵌められているのに気づいた。よく見ると、指輪に青い花の紋様が刻まれている。
(この花って忘れな花……? えっ、まさかこの指輪って……?)
モスは言葉を繰り返しながら、ますます興奮していく。その瞳の奥を窺うと、明らかに正常ではない。
(もしかして……モスはすでに呪われてる?)
リーフの前足がぴくり、と反応したのが見えた。
「……リーフ!」
思わず声が出る。
「リーフを返してください」
「そうだな。ここまで来たら馬車から飛び降りて逃げようなんて思わないだろうからな——でも、この猫を返す前に、これをつけてもらう」
「……え?」
モスが懐から取り出した箱。蓋を開けると、忘れな花の指輪が現れた。
「ひっ」
「驚くことはない。わかってる、お前はこんな綺麗な指輪がもったいなくてつけられなかったんだろう? オレが嵌めてやる——手をこちらへ」
「い、嫌……」
「なんだと? この猫がどうなってもいいのか……!」
モスの腕の中でぐったりと横たわるリーフを見て、私は唇を強く噛んだ。逆らえば無理やり嵌められる上に、リーフの命もないだろう。
「……指輪を嵌めたら、必ずリーフを返して。約束して……」
「ああ、いいさ」
(あの呪いの指輪を嵌めたら……カイルへの想いを捻じ曲げられてしまうかもしれない。モスを好きになるなんて絶対に嫌。心を操られるなんて、怖い……でも、リーフ——絶対に助けるから!)
リーフをもう一度見てから、震える手を差し出した。
「ああ……やっぱりオレのことが好きなんだな。愛しているよ、ローズマリー。これからはずっと一緒だ」
(愛してなんていない——! 私が好きなのは……)
心の中で叫ぶ暇もなく、指輪が薬指に嵌められた。カチリという小さな音が、馬車の中に冷たく響いた。
(…………っ!)
指輪が熱を持ち、青い花弁が淡く光る。痺れる感覚が指から全身に広がっていく。頭の奥が白くぼんやりと霧がかかるようにぼやける。
(怖い……! 助けて、カイル——)
祈った瞬間、イヤリングが熱を帯びた。耳から温かな魔力が流れ込み、指輪で広がった痺れを中和するように駆け巡る。頭を覆おうとした霧は。霧散するように消え去った。
(なんで……? もしかして、このイヤリングのおかげ? カイルが守ってくれたの……?)
泣きそうなくらいに嬉しくなった。今はいないカイルが私を守ってくれている。そう思うと、ほんの少しだけ恐怖が和らぎ、勇気が湧いた。
(絶対にリーフと一緒にカイルのところに戻る……!)
驚いているのを悟られないよう俯き、心臓の激しい鼓動を抑え込んでいると、モスの満足そうな笑い声が聞こえた。
「この指輪を対でつけることで、オレたちを結びつけてくれるんだ」
(……モスは呪いが掛かったと勘違いしているみたい。きっと『対でつける』と言われて、自分も嵌めたら知らずに呪われたのかも……)
できるだけゆっくり顔を上げ、焦点の合わないぼんやりした瞳を意識してモスを見た。モスの満足そうな表情に嫌悪を必死に隠す。
(効いていないって気づかれないように……このまま、ちゃんと効いているフリをしなくちゃ)
「ローズマリー」
モスは私の指輪を親指で優しく撫でながら、甘く囁いた。
「これでよし。お前はオレのものだ。これで永遠に一緒だ」
彼はまだ、呪いが発動していないことに全く気づいていない。私のあごを指でクイっとあげられる。強引に合わせられた視線を逸らしたくなるのを必死で堪えた。
「…………にゃ」
リーフが弱々しく前足を振り上げ、モスの腕を叩いた。
「ちっ! 邪魔な猫だ!」
モスが苛立ってリーフを正面にいる私に雑に投げ渡す。膝の上でそっと毛並みを撫でた。まだ意識が朦朧としているけれど、ちゃんと息もしている。
「……リーフ」
「にゃ……ん」
(……危ない目に遭わせてしまってごめんね)
ヴェノムバインの効果は、抜けつつあるのだろう。
馬車内に充満していた香りも、安物の馬車から入るすきま風で乗り込んだ時より薄まっていた。リーフが目が覚めたことを確認できて、ホッと胸を撫で下ろす。
(リーフも取り戻せたし、あとはモスから逃れればいいんだけど……)
朦朧とした演技を続けながら、ゆっくりと窓に視線を向けた。まだ深い森の中を馬車は走っていた。
「これからラシードさんと港町アルカディアで合流する。朝一番の船で国を出る予定だ」
興奮を隠しきれない様子のモスは、話を続けた。
「向こうに着いたら、ラシードさんがオレのために用意してくれた店で商売を始めるんだ」
「……どんな商売でしょうか?」
「ローズマリーにも手伝ってもらうからな。希少素材を安価で作る店だ」
(それって素材偽装……? やっぱりラシードは素材偽装に関わっている……!)
「ドラゴンの鱗、ユニコーンの角……本来手に入らないような高級素材を、オレたちが加工して作って高値で売る。アルカディアにはもう仲間たちが集まってきている。素材鑑定士も何人か抱え込んでるから、偽装証明書も完璧だ」
(素材鑑定士も? そんな大掛かりな組織になっているの……?)
「あのクソギルドの連中から、たっぷり金を巻き上げてやる。俺を馬鹿にした奴らから、全部取り戻してやるんだ!」
モスは高笑いした。その目は完全に陶酔し、狂っている。
港町アルカディアは、街から馬車で数時間程度の距離だ。船が出航してしまえば、捜索が難しくなってしまう。
(船に乗る前に逃げて、この話をギルドに伝えなければ……)
表情を動かさないよう努め、ただ小さく頷いた。
「まだ着くのは先だ。オレは少し仮眠するから、なにかあったら起こしてくれ」
「……はい」
指輪を嵌めたことで油断したのだろう。モスはすぐに寝息を立て始めた。
(今、何かできることはない……?)
膝の上のリーフをそっと撫でながら、窓の外を凝視した。静寂な夜の森がゆっくりと流れていく。静かすぎるくらいだ。
森に入ってから、かなりの時間が経っているのに、森から抜ける様子がない。
(……もしかして、同じところを回っている?)
胸のざわめきが大きくなった。
夜は魔物が活発になる時間。特に、この辺りの森には迷回樹トレントがいるはずだ。木の魔物である迷回樹トレントは自由に移動することができる。森の中で出口を塞いで森の迷宮を作り、獲物に定めた生き物を同じ場所で迷わせ、弱ったところを捕獲するのだ。
(これだけ走れば、とっくに森を抜けていてもいいはずなのに。おかしい……)
木々の密度が明らかに増し、道も細くなっている。異国の御者に呼びかけようとした瞬間、馬車がガクンと大きく跳ねた。
御者が突然異国語で叫び声を上げ、馬が激しくいななく。馬車の窓から、太い蔦のようなものが地面から伸び上がり、馬の足に絡みついているのが見えた。
(あれって、迷回樹トレント……!?)
次の瞬間、馬車が大きく傾いた。
「きゃあっ!」
激しい揺れに体が叩きつけられる。
御者の錯乱した叫び。葉ずれの音。馬のいななき。
——ガシャンッ!
馬車が横転した。
体が浮き、世界がぐるりと回る。次の瞬間、開いた扉から硬い地面に叩きつけられた。肺が押しつぶされる。
「っ……はっ……!」
全身を打ちつけた衝撃と痛みで、うまく息ができない。なんとか体を起こそうとすると——
「ひっ……」
なにかが左の足首に巻きついた。木の根が地面から生え、蛇のように巻きつきながら這い上がってくる。もう片方の足にも絡みつき、振りほどこうとすると余計に根が締まり、肉に食い込んだ。強く締め上げられ、痛みが走った。
「い、いや……離して……!」
恐怖で心臓が爆発しそうなくらい音を立てている。足掻いてもどんどん巻きつく木の根。その視界の端で、木の幹がうねり、葉を揺らしながら、こちらへ近づいてくるのが見えた。迷回樹トレントだ。
「うわぁ……な、なんで迷回樹トレントがいるんだよ……!」
腰の抜けたモスが悲鳴をあげる。かつて冒険者だったとは思えないくらいの狼狽ぶりだ。
「嘘だろ? ラシードさんはこんなこと言ってなかったぞ! うわあああ……来るな……!」
泣き喚くモスと視線が絡む。
その途端、悲鳴をあげていた口は弧を描く。まるでいいことを思いついたみたいな表情に、嫌な予感がする。
「悪いな、ローズマリー! あとは任せた……!」
モスは剣を抜くと、自身に絡みついた根を断ち切った。トレントの絡んでいない一瞬の隙に、全力疾走で躊躇いなく走って逃げ出す。こちらを振り返りもせず、ただ必死に逃げていく。
(獲物を捕らえると、迷宮は解けると読んだけど……)
「…………最低」
私はトレントに足を縫い付けられたまま、呆然とその背中を見つめた。
「にゃあぁ……!」
ふらつきながらもリーフが私の足に絡まる根に爪を立てた。次の瞬間、しなる枝がリーフを吹き飛ばす。
「……リーフ!」
葉ずれの音がますます大きくなり、幹から伸びる枝に全身を強く締め付けられ、息が苦しい。
「い、嫌……! 助けて……!」
視界がゆっくりと暗くなっていき、もうだめだと思ったその瞬間——イヤリングが強く光り、紫色の輝きが一瞬で周囲を包んだ。
「——っ!」
あまりの眩しさに目を開けていられない。やがて光が止み、静寂が訪れた。目を開いたとき、迷回樹トレントは消え去っていた。
「……助かったの?」
イヤリングに触れる。指輪の呪いからも、トレントからも守ってくれたカイルのイヤリング——そのままへたり込みそうになるのを堪え、リーフの元に走る。草むらに転がっているリーフを見つけた。
「リーフ……!」
「……ゃ」
「血が出てる! 早く手当てしなくちゃ」
息をしている。生きていることに安堵するが、後ろ足に怪我をしていて血が滲んでいる。早く手当をしようと焦っていると、低く腹に響くようなうなり声が聞こえた。
「……グオオオオオ……!」
咄嗟にリーフを胸に抱きしめた。
草の奥に爛々と赤く光る目が二つ。草を踏み締める重く湿った音が近づいてくる。
「……ひぃっ」
恐怖に喉がひきつる。
巨大な猪魔物ワイルドボアだ。鋼のような剛毛に覆われた巨体、鋭い牙からは涎が滴る。体当たりをされれば、私なんて一瞬で潰されてしまうだろう。
(逃げなくちゃ……せめてリーフだけは……)
恐怖に震えながら、リーフを抱きしめたまま一歩ずつ後ずさる。
猪の魔物は、一直線にしか走れない。ジグザグに走って逃げれば、リーフを安全な場所に逃すことはできるかもしれない。
震える足で一歩、後ずさる。もう一歩。ワイルドボアが一直線に突進してくる。
「速い……!」
(……もう、駄目……!)
「——ローズマリー!」
月光を浴びた紺色の髪が夜風に翻った。大剣が一閃され、巨大なワイルドボアの体が真っ二つに切り裂かれる。断末魔が森に響いた。
振り返った紫の瞳が、私を捉える。
「遅くなってすまない……!」
「……カイル……!」
「ローズマリー!」
一直線に私の元へ駆け寄ってきたカイルに、強く抱き締められていた。
「大丈夫か? 怪我はしていないか? ヴィクターから連絡をもらって、すぐに戻ってきた。ローズマリーのギルド証が落ちていたのを見つけて、異国の御者があやつる馬車が街を出たのがわかって——本当に、無事でよかった……」
その声は少し震えていて、いつも余裕のある彼とは全然違っていた。逞しい胸と熱い体温に、ようやく助かったという実感が湧いてくる。
「……怖かったです。もう、だめかと思いました……」「危ないときに傍にいられなくて、本当に情けないよ。でも、無事でよかった」
大きな手が背中を優しく撫でてくれる。堪えていた涙が溢れ出した。そっと涙を拭われる。
「ローズマリーがイヤリングを身につけていてくれて助かった。迷回樹トレントの迷宮は外から侵入するのが難しくて……イヤリングが魔物を滅してくれたから辿り着けたんだ……」
「お守りにと思って身につけてきたんです。でも、本当に守ってくれたんですね……助けてくださって、ありがとうございます」
まだ少し震える指で、イヤリングに触った。どこかぬくもりを感じる。鼓動がどきどき速くなるけれど、言葉が出てこない。
「……ローズマリー」
優しく名前を呼ばれ、紫色の瞳と見つめあう。
頬に大きな手のひらが添えられ、ゆっくりカイルの顔が近づいてくる——
「——そ、そうだ! リーフが大変なの!」
我に返り、カイルの胸を慌てて押し返し、真っ赤な顔で身をよじった。
「リーフの足……血が滲んでて、早く治療しなくちゃ……っ」
「また君は他人のことばかり心配して……」
そう言いながら、カイルは柔らかい笑みを浮かべる。
「でも、ローズマリーのそういうところも可愛いよ」
「え……?」
突然の甘い言葉に耳まで熱くなった。
「回復薬をいくつも持ってきてる。リーフの治療は俺に任せて、ローズマリーも早く飲んで」
渡された回復薬を飲むと、痛かったところが嘘のように消えていく。
カイルはリーフの怪我を確認して、回復薬を丁寧にかけ始めた。金色の泡が弾け、傷がみるみる塞がった。
「これでリーフも大丈夫だ。回復薬を持ってきてよかった」
「ありがとうございます……」
「……にゃ」
リーフが弱々しく鳴き、カイルに前足をかける。彼は優しくリーフの頭を撫でながら口を開いた。
「もう大丈夫だ。……全部、終わったみたいだな」
その言葉に、私はゆっくりと周りを見回すと、森の迷宮はすっかり解けていた。
木々の間から柔らかな月明かりと数多の星が煌めいている。魔物の気配は消え、穏やかな森に戻っていた。
森の先では、モスが騎士たちに両腕を押さえられ、地面に膝をつかされていた。その近くでは、横転した馬車の下敷きになっていた御者さんが、騎士の一人に助け起こされている。意識はあるようで、顔をしかめながら、小さく声を上げていた。その様子から、命に別状はなさそうだ。
「ローズマリー、帰ろう」
「はい……帰りましょう……」
私は大きく息を吐いた。長い、長い一日がようやく終わろうとしている。柔らかな夜風が、優しく頬を撫でていった——












