問22.焦燥
ほとんど眠れぬまま朝を迎えた。
(ひどい顔……)
鏡に映った自分の顔には、濃いクマができていた。目元が腫れぼったく、頰もこけている。化粧でなんとかごまかしたけれど、完全には隠し切れたとは言えずに、ため息をつく。
私は引き出しから、カイルにもらった雫型のイヤリングを取り出した。素材採取のときにいつも身につけるこのイヤリングには、様々な魔法が付与されている。
(……お守りにしよう)
そっとつけて、鏡の前で深呼吸する。イヤリングが目立たないよう髪は下ろしたままにした。今は、できる限りの手を尽くしたかった。
(出勤前にカイルの家に寄って、家令のヴィクターさんに相談しよう。それからノヴァさんに鑑定してもらおう……)
侯爵家なら、通常の電報とは違う連絡手段があるかもしれない。何もなければ後でカイルやヴィクターさんに謝ればいい。
封筒に入れたままの指輪を鞄の奥深くにしまい、できるだけ平静を装ってカイルの家に向かった。
出迎えてくれた家令のヴィクターさんは、私の話を聞くやいなや表情を厳しくした。
「ローズマリー様……これは、ただ事ではありません。モスという男が関わっている以上、決して油断はできません」
心配しつつもきっぱりと言われた言葉に、胸に温かいものが広がった。
「万が一の危険を考えると、今日の夜はこちらでお泊まりいただいた方がよろしいかと存じます。カイル様は現在王都の会議に出席されており、まだお戻りになっていませんが、きっと同じことをおっしゃるでしょう」
「……ありがとうございます」
私は戸惑いつつも小さく頷いた。ヴィクターさんはすぐにカイルと連絡を取ってくれると約束してくれた。
ギルドに着くなり、同僚のマリアが血相を変えて駆け寄ってきた。
「ローズマリー、待ってたの!」
「えっ、どうしたの?」
「大変なのよ! 今朝、ダンジョン探索から複数の冒険者パーティーが戻ってきて、魔物と素材が山のように持ち込まれてて……処理が全然追いつかないの! ノヴァさんも家族の急病で休みで、とにかく大変なのよ……っ」
(ええっ! こんな大変な時にノヴァさんが休みなんて……ううん、沢山教わってきたんだから、しっかりしなくちゃ)
「わかった。私も急いで素材鑑定に入るね」
すぐに作業台に向かおうと思ったら、腕を掴まれた。
「——ちょっと待って。あのね、リリーが昨日付けで突然辞めたの」
「……昨日?」
「そうなの。昨日の夕方、副ギルド長に『今日で退職します』って言ったきり、連絡も取れない状態みたい。新しく出店予定の彼氏の店を手伝うみたいだけど……いきなりいなくなるなんて、本当に無責任な子」
マリアは声を落として周囲を素早く見回すと、私の耳元に顔を近づけた。
「それとね、リリーの彼氏——エラビーヌ国出身のラシードというみたい。モスがそのラシードの店で雇われていたわ。二人とモスが一緒にいるのを冒険者たちに目撃されてる」
(だから、リリーはモスが私に忘れな花の指輪を贈ったのを知っているのね……)
「表向きは流行りのジュエリーショップなんだけど、裏で怪しいことをしている疑惑があって……あまり近づかない方がいいと思う」
マリアは私の肩を軽く叩いた。
「とにかく、今日は本当に忙しいから、お互い頑張りましょう!」
「……そうだね。頑張ろうね」
情報が多すぎて頭が整理しきれていなかったけれど、気持ちを切り替えるように頷いた。
朝から、すべてのギルド職員が忙しそうにしている。私のいる作業台に回されるのは小さな素材だけど、魔石や鉱石も多くて、いつもの倍近い喧騒だった。
気になる忘れな花の指輪の鑑定はひとまず置いておき、回ってくる素材を次々とさばいていく。素材鑑定士の判定の必要なものは、買取内訳書を記入し、ノヴァさんが来たらサインをもらうだけの状態に仕上げる。
それでも——業務に追われながらも、頭の中は思考でぐるぐる巡っていた。
(忘れな花の指輪の鑑定ができれば……)
マリアの忠告を思い出す。
もしも指輪に違法な素材や効果が付与されていれば、ラシードという人物が偽装素材に関わっている証拠になる。そうなれば、雇われているモスや付き合っているリリーも何か事情を知っている可能性が高い。モスには接触したくないけれど、今、このタイミングでリリーに会えなくなったらラシードについて調べることが難しくなってしまう。
(副ギルド長に相談したいけど……)
ノヴァさんがいないため指輪の鑑定はできないし、カイルは王都の会議でいつ帰ってくるかわからない。副ギルド長は朝からずっと駆け回っていて、話しかける隙が全くなかった。何度か声をかけようとしたが、すぐに他の職員に呼び止められてしまい相談する余裕はない。
そっとイヤリングに触れる。
(……今日中にどうにかするのは無理かもしれない)
結局、何もできないまま時間が過ぎていく。
昼を過ぎても素材の山は一向に減らず、新しいパーティーが戻ってきて作業台は鑑定待ちの素材でさらに埋まっていく。遅めの昼食を急いで済ませ、ほとんど休みなく作業を続けた。気づけば窓の外はオレンジ色に染まり、ギルド内の魔法灯が次々と灯され始めていた。
(……もう、こんな時間)
今日は完全に残業確定だ。
証拠を掴みたい気持ちだけ空回りして、結局、指輪の件もモスの件も、何もできないまま一日が終わろうとしている。
「ローズマリー、今日はもう上がっていいぞ。遅くまで、ありがとうな」
副ギルド長の声が聞こえたのは、窓の外がすっかり暗くなってからだった。
「……あの、副ギルド長」
「どうした?」
「えっと、」
口をひらいた瞬間、背後から別の職員が慌ただしく駆け寄ってきた。
「副ギルド長! 素材解体棟で判断に迷うものがあるそうです。今すぐ来てもらえませんか?」
「ああ、わかった。すぐ行く——ローズマリー、用事は大丈夫か?」
「えっと、大丈夫です。お疲れさまでした」
私の返事を聞くと、副ギルド長はすぐにその職員と共に急いで解体棟に向かう。
「にゃお」
「……リーフ、仕方ないよ。もう帰ろう」
「うにゃお」
身体をすり寄せてきたリーフを抱き上げて、鞄を肩にかける。ギルドを退勤して外へ出ると、夜風が冷たく、疲れ切った体をふるりと震わせる。ようやく一息つけた安堵からか、肩の力がすっと抜けた。
街灯の光がぼんやりと道を照らす中、私は小さく息を吐く。
(こんなに遅いなら、もうモスもいないはず……)
そう思っても、とても自分の家には帰りたくない。ヴィクターさんの言葉を思い出して、カイルの家に向かう。
その時、腕の中でリーフが急に毛を逆立てた。
「うにゃ……っ、にゃああ……!」
リーフが奇妙な声を上げ、私の腕から飛び降りる。足取りがふらつき、酔ったようによろめきながら、誘われるように暗い路地へ進んでいく。
「リーフ! 待って、どうしたの?」
突然のリーフの行動に戸惑いながらも後を追う。捕まえようと思っても、追いかけるのに精一杯で、気づけば路地を抜けていた。そこは少し開けた裏通りのような場所で馬車が一台、停まっていて、リーフがその馬車の前でようやく足を止めた。
「リーフ……!」
駆け寄ろうとした瞬間、馬車から一人の男がゆっくりと姿を現した。
「……っ!」
モスだった。
以前の涼風祭で見かけたときのようなやつれた薄汚い姿ではなく、髭は綺麗に剃られ、派手な洋服を着て顔色も良かった。自信に満ちた目がぎらついている。
モスはふらつくリーフを片手で軽々と抱き上げた。
「……っ! リーフを返して……っ」
「にゃおお……んにゃああ……」
今までとは違うリーフの異常な鳴き声に、気持ちが焦る。
「この猫がローズマリーにとってどれだけ大切なのかは、知っているよ」
私の心臓が、激しく跳ねる。
「分かっているなら、リーフを返して」
「ローズマリーは素直になれないってリリーから聞いていたけど、本当だったな。オレと一緒に行くなら、猫は返すよ」
モスは薄く笑った。薄暗い灯りの中で、その笑みはぞっとするほど冷たい。
「……もし、一緒に行かないと言ったら?」
「その時は、この猫を——」
「っ!」
リーフの首の後ろに指を沿わせ、斬るような仕草をした。私は息が詰まり、指先が冷たくなっていく。
(リーフを殺すってこと……?)
でも、リーフがモスの腕の中にいる以上、下手なことはできない。
「…………一緒に行くわ」
声が震えた。それでも、私ははっきりと言った。モスは満足げに頷き、馬車の扉を開けた。












