問19.朝焼け
「んにぃ……」
ふにふにした感触が頬に当たる。ごろごろという音と鼻息が顔にかかった。
(リーフ……?)
「にゃ」
「おはよう……」
「にゃん」
胸の上に乗って喉を鳴らし、私を見つめて起きるのを待っている様子が可愛くて、思わずリーフの頭を撫でた。
「にゃん」
朝の早い時間で、隣のカイルはぐっすり眠っていた。
リーフは私が起きたことを確認すると、ベッドから飛び降りてドアに向かう。扉の前で振り向くと開けてというように小さく鳴いた。
(……リーフだけで外に行くのは心配)
慌てて羽織りを手に取って私も慌ててついて行く。扉をそっと開くと、リーフが迷いなく歩き出す。
突然始まった冒険に、どきどきしてしまう。リーフの小さな足音を追いかけて、屋敷の廊下を抜けると、すぐに裏口の扉が見えた。リーフは迷わずそこをくぐり抜け、私もそっと後を追う。
外に出た瞬間、ひんやりとした朝の空気が頬を撫で、甘いラヴァンドの香りが一気に広がった。
「わあ……!」
庭の先には、ラヴァンドの花畑が広がっていた。
まだ朝焼けの薄紫とオレンジが混じり合う空の下、無数の紫の花穂が波のように揺れている。霧が薄く立ち込め、朝日が優しく差し込むと、花の一つ一つがきらめかせていた。息を呑むほどの美しさに、足が止まる。
「にゃん」
リーフが私の足元で鳴いて、先を促す。花畑の入り口近くに、ベンチに腰掛けたお祖母様の姿があった。
朝の光に照らされて、白髪が柔らかく輝いている。お祖母様は私に気づくと、穏やかに微笑んだ。
「おはよう、ローズマリーさん。早起きね」
「……お、おはようございます」
慌てて頭を下げた瞬間、はっとした。
(……私、今、寝間着に羽織りだけだ!)
顔が一瞬で熱くなり、耳の先まで赤くなるのが自分でもわかった。
「こんな格好ですみません……リーフが急に外へ行きたがって、つい……!」
羽織りをぎゅっと寄せながら深く頭を下げる。お祖母様はくすっと笑った。
「ふふっ、いいのよ。リーフ君に急かされては仕方ないわ。それに、この時間なら誰も見ていないわよ……薄着で気持ちのいい朝だものね? 私もね、朝の空気が心地よくて、ついこんな薄いガウン一枚で来てしまうのよ」
確かに、お祖母様も軽いシルクのローブを羽織っただけの朝用の装いだった。その朗らかな笑顔に、ようやく肩の力が抜ける。
「でも……本当に申し訳なくて……」
「気にしないで。むしろ、そんな慌てふためくローズマリーさんが可愛らしいわ。カイルの奥様は、素直で純粋なのね——ねえ、こちらにいらっしゃい。特等席なのよ」
「あ、ありがとうございます」
お祖母様がそう言って、手招きしてくださったので、私は恐縮しながらもベンチの隣に腰を下ろした。リーフもさっさとお祖母様の膝の上で寛ぎはじめた。
(リーフったらお祖母様に会いに来たのね)
「リーフ君がローズマリーさんを連れてきてくれたのね。ふふ、この子は本当に賢いわね」
「にゃん!」
リーフは満足げに鳴くと、お祖母様の撫でている手のひらに頭をすり寄せる。朝の静けさと、ラヴァンドの香りが心地よい。目の前に素晴らしい景色に圧倒され、私たちはただ花畑を眺めて過ごした。
「……ローズマリーさん」
しばらくして、お祖母様が静かに口を開いた。
「カイルを変えてくれて、ありがとう」
「……え?」
私は思わずお祖母様を見る。カイルと同じ紫色の眼差しは、とても優しい。
(どういうことだろう……?)
困惑して首を傾げると、お祖母様が柔らかく笑った。
「ふふっ、あの子ったら肝心なことは言ってないのね」
「えっと、どういうことでしょうか……?」
「カイルから、冒険者になった理由について何か聞いている?」
「……はい。冒険者になるのを反対された時に、お祖母様が背中を押してくださったと聞いています」
お祖母様は小さく頷いて、遠くの花畑を見つめた。
「カイルはね、昔は自分のために冒険をしていたの。もちろんそれが悪いわけじゃないけれど……侯爵家の次男としてではなく、自分自身を認められたいという思いが強かったのね」
「——はい」
「でもね、五年前にある領地で魔物が大量発生して、領民たちが大勢襲われたの。近くにいる冒険者に緊急召集がかかって、カイルも駆けつけたのよ」
私は息を呑んだ。
「あの、その領地って……?」
「ええ、ブルーム子爵領の出来事よ」
お祖母様は遠くの花畑を見つめながら、静かに続けた。
(カイルがあの魔物を倒してくれた冒険者の一人だったなんて……!)
「その時、傷ついた領民たちに献身的に尽くす領主の娘さんがいたそうよ。自分だって怖かっただろうに……まだ若い女の子が気丈に振る舞って、怪我をした領民たちに『大丈夫、きっと助かるから』って励まし続けていたと言っていたわ——」
(まさかあの時の様子を見られていたなんて……)
ブルーム子爵領で起こった惨劇の時、私は十六歳だった。今度は驚きすぎて、ただお祖母様を見つめると優しい眼差しに見つめられていた。
「あの子が変わったのは、ローズマリーさんのおかげなの。『自分のため』から『みんなのため』へ、冒険者として生きる決意をしたのは、あの出来事があったからよ」
(嘘……?)
驚いて目を見開く私の手をお祖母様はぎゅっと握り、目を細めた。
「カイルを、頼むわね」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。涙がにじむのを堪え、小さく頷く。
胸が熱くなった余韻に浸っていると、遠くからかすかな足音が聞こえてきて、お祖母様がくすくす笑う。
「ふふっ、相変わらず朝が弱いわね」
振り返ると、カイルが眠たげな目をこすりながら近づいてきていた。彼も寝巻きに羽織りを肩にかけただけのラフな姿で現れ、髪が少し乱れている。
(……っ、カイル!)
私は慌てて羽織りの紐を結び直して、できる限りの身なりを整えた。髪の毛も寝癖がついていないか気になって、そっと手で押さえた。
(どうしよう……こんな格好で会うなんて……)
「……おはよう。お祖母様、ローズマリー」
動揺する私には気づかない様子のカイルは、少し照れくさそうに頭を掻いた。お祖母様はにっこり笑って、私たちの肩を軽く叩く。
「先に戻るわね。使用人たちにも伝えておくから、二人はゆっくり見ていってちょうだい」
そう言うと、お祖母様はゆっくりと立ち上がり屋敷に戻って行った。
お祖母様の背中を見送った後、カイルが口を開く。
「せっかくだから、もう少し見て行こうか」
「えっと……」
「昨日、一緒にラヴァンド畑を見る約束をしただろう? 奥に進むと、さらに綺麗なんだ」
できれば今すぐ部屋に戻って着替えたいけれど、戸惑った私を見つめる彼の瞳が大型犬みたいにきらきら期待に満ちている。
(……こんな顔されたら断れるわけない)
私は頷いて、彼に導かれるまま小道を歩き始めた。
視界いっぱいに広がるラヴァンドを見渡しながら、深呼吸をする。ラヴァンドの甘い香りと朝の爽やかな空気が胸を満たした。
「……本当にすごく綺麗です」
私が思わず呟くと、カイルが頷いた。
「ああ。ここは昔からお気に入りだったんだ。ローズマリーと一緒に見れてよかったよ。起きたらローズマリーもリーフも居なくて焦ったけど……」
「そ、それは……すみません。リーフが朝早くに起こしてきて……まだぐっすり寝ていたので……」
「そうなのか? でも、次からは起こしてほしい」
(つ、次……!?)
拗ねたような表情を浮かべるカイルに、驚きながら頷いた。少しの沈黙の後、彼がそっと尋ねてくる。
「二人で何を話してたんだ?」
(えっと、どうしよう……? でも隠すのも変だし)
お祖母様の言葉を思い出して、顔が火照るように熱くなる。でも、彼の口から聞きたいと思った私は、迷った末に口を開いた。
「……お祖母様が、昔のブルーム子爵領の話を……カイルが魔物を倒してくれた冒険者の一人だったと…、ありがとうございます。それから、改めてブルーム子爵領を守ってくださって、本当にありがとうございました!」
私がそう言うと、カイルは少し目を伏せて、照れくさそうに笑った。
「いや、俺の方こそ礼を言わないと。あの時、ローズマリーが傷ついた領民たちを励まし続ける姿を、ずっと忘れられなかった」
「ほ、本当ですか……?」
目を少し見開いてから、視線を落とした。
「……でも、あれはただ必死で……何か声を出していないと、不安で押しつぶされそうだっただけなんです……」
カイルの言葉に、そっと首を横に振る。
お祖母様も彼もよく思ってくれているけれど——あの時は、領民たちの呻き声や泣き声、それから魔物の咆哮が夜空を切り裂いていた。真相は、ただただ必死で、みんなを励ましていなければ自分を保てなかっただけなのだ。
「いや、そんなことはない。それでも泣き叫ぶことも耳を塞ぐこともできたのに、ローズマリーはしなかった。領民に笑顔で声を掛け続けていた。それは簡単にできることじゃない。誇っていいことだ」
(……本当に? あの時の私のしていたことは無駄ではなかった……?)
「……あ、ありがとうございます」
私がそう言うと、カイルは少し目を伏せて、照れくさそうに笑った。
「俺の方こそ。あの時の君の姿を見て……自分のことが恥ずかしくなったんだ。あれから、誰かのために強くなりたいって思うようになった。今の俺があるのは、お祖母様だけじゃなくて——ローズマリーのおかげでもあるんだ。ありがとう」
カイルの低くて心地よい声が心に響く。胸に熱いものが込み上げて、涙がにじみそうになるのを堪える。二人の間に沈黙が落ちて、ラヴァンドの香りに包まれていた。
「にゃん」
リーフが足元で小さく鳴いて、私たちの間をくぐり抜ける。その愛らしい仕草に笑みがこぼれた。リーフを見ていたが、視線を感じてカイルを見上げると優しく見つめられていた。
「……今さらだけど、あの日、酒場で声をかけたのも……最初から、ローズマリーだってわかってたんだ」
「えっ?」
私は思わず声を上げた。
「あの夜、ローズマリーを見かけたのは偶然だった。でも、ひと目見たらブルーム子爵領で会った子だとすぐに気づいた——本当は声を掛けるつもりはなかったんだけど……あまりに思い詰めた顔をしていたから……」
「……そうだったんですね」
モスに裏切られてボロボロだった私のことを心配して声を掛けてくれたんだと思うと、驚きながらも、胸の奥が喜びでじんわりと温かくなる。それと同時に、私の素性を知っていたなら余計に疑問が頭に浮かぶ。
「……でも、それなら、どうしていきなり結婚を?」
貴族の結婚は、婚約を家に打診し、婚約期間を経てから結婚に至る。私のことを平民だと思っていたのならまだしも貴族だと知っていたならば、先に婚姻契約書を結ぶなんて普通ならばあり得ない。
「…………やっぱり思い出さない?」
「え……? なんですか?」
カイルは少し困ったように、私の顔を覗き込む。
「うーん……ローズマリーに結婚をねだられたんだよ」
「へっ!?」
そう言って、カイルがニヤリと笑う。
普段の真面目で優しいカイルとは違う、ちょっと意地悪で、でもすごく色っぽい笑み。
「『こんな可愛げのない私なんて一生独りなんです……』って言って泣きはじめてね——」
「嘘……」
「嘘じゃない。ローズマリーの泣き顔も可愛くて、俺は好きだよって言ったら『じゃあ、今、結婚してください!』ってプロポーズされたんだよ」
(……嘘? 嘘でしょ……あれ、でも——)
カイルの言葉を反芻している内に、あの夜の記憶の断片がおぼろげに浮かんできた。
——モスに傷ついて、涙が止まらなくて……。でも、優しい手が頭を撫でてくれて「いいよ、結婚しよう」って婚姻契約書をその場に取り寄せてくれて……
「……っ!」
心臓がどきんと跳ねて、さっと血の気が引いた。
「…………そ、そんな、嘘でしょ」
私は両手で顔を覆った。
恥ずかしくて、申し訳なくて——いろんな感情がぐるぐる回って、言葉が出てこない。
(どうしよう……どうしよう……)
しばらく経った後、指の隙間からカイルをそっと覗いた。
「おかげで俺はかわいい奥様ができた。後悔はまったくしてないよ」
カイルが優しく頷きながら笑う。
(まったく後悔をしてないって、どういう意味……?)
彼の笑顔を見ていると、胸がどきどきして……本当の気持ちを聞きたいのに、それと同じくらい彼の気持ちを聞くのが怖い。
私はぎゅっと自分の指先を握りしめた。
でも、もしも私と同じ気持ちだったら——
「にゃん!」
突然、リーフが私たちの足元から飛び出して、元気よく鳴いた。カイルの足にぴょんと飛びついて、じゃれつく。
「ははっ、リーフに怒られた」
カイルが笑ってリーフを抱き上げると、リーフは満足げに喉を鳴らした。
「そろそろ戻ろう。あまり遅いとお祖母様に心配されてしまうからな」
「そ、そうですね……」
私は、こくりと頷く。
(まだ気持ち聞くのが怖いって、リーフには気づかれていたのかな……?)
「にゃん!」
カイルの腕からするりと抜け出したリーフが走りはじめ、二人で追いかける。ラヴァンドの香りを胸いっぱいに吸い込みながら、私たちはゆっくりと屋敷へと歩き出した。
朝食後、お祖母様に「また必ず来ます」と約束して、領を後にした——












