問18.月明かり
「……本当に、体調は大丈夫なんですか?」
「ええ、まだお迎えは来そうにないわよ。ちょっと体調を崩しただけだったのに、皆が大げさに騒いでしまったから驚かせてしまったわね」
お祖母様は申し訳なさそうに目を細め、カイルを見つめる。その視線は、慈しむような温かさに満ちていた。
「……よかった。本当によかったです」
カイルの声は掠れていて、目尻が赤く染まっている。私は小さく息を吐いた。
(お祖母様が元気でよかった)
「……あの、カイル」
「ああ、そうだな……」
私の呼びかけに、察したようにカイルが静かに頷いた。彼はゆっくりとお祖母様の前に膝をつき、目線を合わせるように顔を上げた。
「まあまあ、そんなに泣きそうな顔をしないで。せっかくローズマリーさんを連れてきてくれたのに」
「すみません……危篤だと聞いていたお祖母様が元気でいてくれて本当に嬉しいです。どうしても、お祖母様と話したいことがあって」
「それは、冒険者になった時のことかしら?」
「……はい」
カイルの緊張した声に、思わず私も手に力が入るが、お祖母様の方は柔らかな表情のままだ。彼はお祖母様の言葉に、小さく頷いた。
「ふふ、そんなこと言われなくても、ちゃんと分かっていたわよ。カイルは昔から優しい子だったからね」
「俺が今、ギルド長として皆を支えられるようになったのは、あの時お祖母様が背中を押してくれたからです。本当に、ありがとうございました」
カイルのことを見つめるお祖母様の眼差しは、ずっと穏やかだった。
「ふふっ、どういたしまして。でもね、ありがとうはこちらの台詞よ。こんなに急いで会いに来てくれたなんて嬉しいわ。それに——」
お祖母様はカイルの頭を優しく撫で、それから私の方に視線を移した。
「あなたがローズマリーさんね? カイルから話を聞いているわ」
「はじめまして、ローズマリーと申します」
「まあまあ、そんなに緊張しなくてもいいのよ。ローズマリーさんも、遠いところをありがとう」
「……私こそ、お会いできて嬉しいです。カイルから、たくさんお話を聞いていました」
私が頭を下げると、お祖母様はにっこり微笑む。
「せっかく二人とも来てくれたんだもの。ローズマリーさん、ぜひカイルとの馴れ初めやギルドの話を聞かせていただきたいわ。夕食はまだでしょう? 王都のような洗練されたものはないけれど、この土地自慢の料理を用意させているの。一緒に食べましょう」
「ぜひ……っ」
お祖母様のお誘いに返事をする。カイルを見れば、彼はとても晴れやかな顔で笑っていた。
カイルのお祖母様との夕食は、初めは緊張したけれど、とても楽しいものだった。
新鮮な野菜とハーブ、オリーヴァの実から絞ったオイルをたっぷり使った、シンプルで体に優しい料理が食卓に並ぶ。
夕食の話題は、人が初めて手にしたオイルだというオリーヴァの話から始まって、カイルのギルド長をしている話や、一緒に素材採取に行き、そこでリーフと出会ったいきさつを話した。
「にゃん!」
「まあ、リーフ君も大きなストームバードに襲われて大変だったのね」
「にゃにゃん」
「うふふ。猫が好きなんだけど、ラヴァンドの精油は猫にとって有毒だから飼えなかったの。リーフ君が来てくれて嬉しいわ」
「にゃおん」
すっかりお祖母様に懐いたリーフは膝の上で優しく撫でられている。リーフの見た目は子猫そのものだけど、魔物だから普通の猫がダメな食べ物や匂いも平気なのだ。
さらに話題は、カイルとの結婚について移ったけれど、カイルがぼかして話してくれたのでほっと息をついた。
(こんな素敵な方に、嘘はつきたくないもの……)
食事が終わると、お祖母様が「今日はもう遅いわ。屋敷の客間を用意させているから、ゆっくり休みなさい」と優しく言ってくださった。
カイルがお祖母様の部屋まで送ることにしたので、私は先に客間に案内してもらう
部屋に入った瞬間、ふわりと甘いラヴァンドの香りが迎えてくれた。
(……とっても素敵)
窓辺には新鮮なラヴァンドの花束が飾られている。
ラヴァンドに淡い紫色のバラと、白い産毛で覆われた柔らかなハーブを合わせた涼やかな花束。上品な香りを静かに部屋に広げていた。
シャンデリアが高い天井から優雅に吊り下げられ、部屋全体を柔らかく照らす。淡いブルーグレーの壁には美しいレリーフが施されていて、歴史を感じさせる。華やかな雰囲気もあるけれど、温かくて落ち着く空間だった。
(はあ、気持ちいい……)
移動の疲れを癒しましょうと、浴室へ案内された。広々とした湯船には湯が張られ、表面にラヴァンドの花びらが浮かんでいる。湯気とともに立ち上る優しい香りが、疲れた体を解きほぐしてくれた。至るところから感じられるカイルのお祖母様の心遣いに、胸の奥がじんわりと染みてくる。
湯に浸かりながら、今日一日の出来事を思い返す。馬車で打ち明けられたカイルの過去に驚いたけれど——
(カイルがお祖母様に思いを伝えられてよかった……今もまだ話しているのかもしれないな……)
でも、同時に胸が痛んだ。お祖母様の細やかな心遣いに触れて、こんな素敵な方に偽りの夫婦だと嘘をついていることが心苦しい。
(……契約結婚のはずなのに、私はカイルのことが、ますます好きになってしまった)
今日、カイルの葛藤や想いを知ることができて嬉しかった。
いつも頼りになるギルド長の顔や、余裕たっぷりの年上らしい姿だけではなくて、繊細なところや過去の出来事にも触れられて。知らなかった彼を知るたび、胸がほわりと温かくなった。
湯浴みを終えると、部屋にはほんのり甘いハーブティーが用意されていた。リーフを膝に乗せてゆっくりしていると、扉が控えめにノックされた。
「ローズマリー、入ってもいいか?」
「は、はい。どうぞ」
カイルの声に膝の上に居たリーフが扉に向かう。慌てて私が返事すると、カイルが静かに入ってくる。
彼も湯浴みを済ませたばかりらしく、髪が少し湿っていて、普段より幼く見えた。足元にすり寄るリーフを抱き上げた彼を見つめると、先ほどの晴れやかな顔とは違い、困ったように眉を下げている。
どうしたのだろうかと首を傾げると、カイルが言いづらそうに口を開いた。
「……すまない。部屋が一つしか用意されてなかった。お祖母様がいる手前、別々に寝るのも不自然だから言い出せなくて」
改めて部屋を見回す。カイルの屋敷を出発する時に、ヴィクターとミランダが用意してくれた私とカイルの荷物が二人分置かれていた。
「……本当に同じ部屋なんですね」
「夫婦ということになっているからな」
カイルの耳たぶと首筋が、ほんのり赤い。私も頬がじわじわ熱くなるのを感じた。
「……本当にすまない」
「い、いえ。驚きましたけど、大丈夫です……」
部屋に沈黙が落ちる。ラヴァンドの甘い香りが、なんだか余計に濃く感じられた。視線が自然と、部屋の中央にあるベッドへ向いてしまう。大きくて寝心地の良さそうなベッドは、この客間にひとつしかない。
私の視線に気づいたカイルが即座に口をひらく。
「俺がソファで寝る。ローズマリーがベッドを使ってくれ」
「それはダメです。私の方が背が低いのでソファに寝ます」
「それは絶対駄目だ。俺は野営に慣れているから」
二人でベッドを譲り合っていると、リーフがカイルの腕から身を捩って、ベッドの真ん中に飛び乗った。
「にゃん」
クリーム色と淡いゴールドの柔らかなリネンで整えられた厚くふかふかのマットレスと羽毛布団が柔らかく沈み込む。
「……リーフは、真ん中がいいみたいですね」
「そうだな……」
リーフがベッドの真ん中で丸くなるのを見ながら、私たちはしばらく無言になった。気まずい沈黙が数秒続いて、二人して視線が自然と大きなベッドに向かう。
私は勇気を出して、小さく提案した。
「ベッド、広いですし……リーフを真ん中にして、二人で寝ませんか?」
声がどんどん小さくなり、最後はほとんど囁き声になってしまう。カイルも一瞬目を逸らし、喉を鳴らした。
「……本当にいいのか?」
「夫婦……ということになっていますし。ここで別々に寝ていたら、怪しまれるかもしれません」
彼はしばらく黙っていたけど、やがてゆっくりと頷いた。
「わかった。ありがとう」
カイルがゆっくりとベッドの端に腰を下ろし、私も反対側にそっと座る。リーフはすでに真ん中で丸くなり、小さな体を上下させて安心した寝息を立て始めていた。
「じゃあ、もう寝ようか」
「は、はい」
「灯りを消すよ」
カイルの声が低く響く。私が小さく頷くと、彼はベッドの端に置かれたランプに手を伸ばした。部屋は一瞬で柔らかな闇に包まれる。窓から差し込む淡い月明かりと、ラヴァンドの花束がほのかに浮かび上がるだけ。
自分の心臓の音がやけに大きく感じられた。身体を強張らせていると、シーツの上からリーフの小さな寝息と、喉を鳴らす音だけが聞こえてくる。
「もう寝た?」
カイルの低くて囁くような声に目をひらけば、彼の眼差しに見つめられていた。
「……まだです」
「お祖母様を部屋に送った後も、色々話せたんだ」
「そうなんですね」
「背中を押してくれたおかげだ。ありがとう」
「気持ちを伝えることができて、よかったです」
彼の言葉に頬を緩ませる。
一緒のベッドにいる胸のドキドキは変わらないけれど、いつの間にか緊張した気持ちはなくなりはじめていた。
「おやすみ、ローズマリー」
「……はい、おやすみなさい」
小さな声で言葉を交わす。リーフの寝息が規則正しく続き、まるで子守唄のように部屋を満たす。そっとリーフに手を伸ばして撫でれば、ビロードのような毛並みに心が安らいでいく。
月明かりがシーツに淡い影を落とす中、私は静かに目を閉じた。












