問17.馬車
馬車は、カイルの実家であるヴァンゼル侯爵領へと向かっていた。窓から見える風景が、見慣れた街並みから穏やかな田園風景へと変わっていく。
お祖母様の暮らす屋敷は、領内でも特に穏やかな気候の土地にあり、王都から馬車で二日、私たちの街からは丸一日かかる。休憩を最小限にして急いでも、到着は夕方になる見込みだ。
隣に座る彼は黙ったまま膝の上で指を握りしめ、時折窓の外を睨むように見つめていた。
(もっと早く着けばいいのに……)
普段の大人っぽくて余裕のある表情とは違い、指先が膝の上で小さく震えているのが目に入る。
その様子に胸が締めつけられた。少しでも元気づけたくて、声を掛けた。
「……大丈夫です。お祖母様、きっと待っててくださいますよ」
「そうだな。ありがとう、ローズマリー……」
カイルは驚いたように私を見て、小さくお礼を言う。その声は少し掠れていて、迷子の子供みたいに感じて胸が痛んだ。
「覚悟はしていたつもりだったのに、いざ危篤だと聞くと動揺してしまうな……一緒に来てくれて、本当にありがとう」
大丈夫だという想いを込めて、彼に微笑む。カイルがぽつりと呟いた。
「……俺は祖母に感謝していてね。情けない話だけど、聞いてもらえるかな」
「はい、もちろん。どんなお話でも」
カイルに見つめられる。真っ直ぐに見つめ返して、しっかり頷いた。
「俺はヴァンゼル侯爵家の次男だから、子どもの頃から当然のように外務院へ進むよう言われてたんだ」
「ヴァンゼル家は外務大臣を多く出す家系ですものね」
ヴァンゼル侯爵家は、外交を司る機関である外務院の外務大臣を多く輩出する家系だ。カイルのお父様は現外務大臣、お兄様も外務院で働いている。貴族が家門の道を進むことは自然な流れだと思い、小さく頷いて相槌を打つ。
「ああ。でも、俺は兄と違って、勉強は苦手で、外を駆け回るほうが好きだった」
「……確かに、体を動かすのが得意そうです」
カイルは苦笑いを浮かべて続けた。
「俺が家庭教師の授業を放り出して庭を駆け回るのを見るたび、家族は呆れていたよ。反対に兄は、勉強が得意だったし、外務院に入ると父の補佐としてすぐに活躍をはじめたけど……」
カイルの視線が窓の外、遠くを見つめる。
「俺は兄のようになれないと反発して、父は『兄を見習え』と毎日言うばかりだった。比べられるのが苦痛で、ますます勉強から逃げた——幼稚な抵抗だったんだけど、当時は本気で悩んでたんだ……」
「大変だったんですね……そんなふうに言われ続けたら、誰だって辛くなりますよ」
(比べられるのは、誰だって辛い……)
「今思うと、家族は俺を嫌っていたわけじゃない。ただ、どう扱っていいかわからなかったんだと思う。活動的すぎる俺を、どうにか外務院に入れようとしてただけだった」
彼は困ったような表情を浮かべる。それからひとつ息を吐き出した。
「でも当時の俺には、そんなふうに考えられなくて……外務院に入らなくても生活できるように騎士の道に進もうと考えてね」
継ぐ爵位を持たない貴族の次男三男が騎士団に入るのはよくある話だ。侯爵家のカイルなら冒険者になるよりも騎士を目指すのは自然だと思う。でも、カイルは騎士にはならないで、冒険者になった。
(……なぜ?)
「俺が騎士の道に進むことを考えてると知った父から『騎士になるなら派閥のツテを使って口をきいてやる』って言われてね……」
「……それは、嫌ですよね。自分で決めたいのに、全部決められているみたいで」
同情するようにカイルを見ると、困ったように眉を下げた。
「そうなんだ。当時は、耐えられなかった。自分で身を立てたいと思ってる側からそんなことを言われて——」
カイルは言葉を切ると、眉を寄せた。
「騎士団も結局、貴族のしがらみの中にいることに気づいて、興味が冷めた。だから、家の目が届かない冒険者の道を選んだんだ」
「……だから冒険者を選ばれたんですね」
カイルが騎士ではなく冒険者を選んだ理由に、息が少し苦しくなった。
「父の目が届かない、冒険者の世界に飛び込んだものの、すぐにバレてしまって……父どころか家族中が大反対でさ」
「……命懸けになりますからね」
騎士も命を掛けることはあるが、今、この国は平和なので戦争に向かうようなことはほとんどない。それに比べたら、冒険者はもっと日常的に危険と隣り合わせだ。彼の家族が反対するのも分かる。
「ああ、今なら父が純粋に身を案じてくれていたとわかるんだが、当時は外務院か騎士団か、それ以外の道はすべて認めないと言ってるみたいに聞こえてね。俺個人の選択はなにも許されてないと思えて、ますます意地になって反発したよ……」
「……気持ちがすれ違ってしまったんですね」
カイルの瞳に後悔が混じり、はあっと深い溜め息を吐く。馬車が石畳の継ぎ目を越えるたび、軽く揺れる音が響いた。
「そんなとき、祖母だけは違った」
カイルの声が少し柔らかくなる。
「『冒険者だって格好いいじゃない。皆が同じ外務院に入るなんてつまらないでしょう? カイルはカイルらしく活躍すればいいのよ』って、笑いながら言ってくれたんだよ」
その言葉を思い出したのか、カイルの目尻がわずかに緩む。そんな彼の様子に、私は胸が温かくなった。
「祖母が『国に縛られない冒険者が得た情報が、領地の交易や外務の役に立つこともある』と根気強く父たちを説得してくれたおかげで、俺は冒険者を続けられることになったんだ」
「情報の鮮度は、冒険者が上ですからね!」
「そうだな」
思わず力強く答えると、カイルが当たり前だと頷く。
冒険者ギルドは、国に縛られない独立した機関なので自由に他国を出入りできる。ましてSランク冒険者のカイルは、いち早く様々な情報が入ってきたはずだ。秘匿しなくてはならない情報はあるだろうが、それでも侯爵家に役立つような情報は入手できただろう。
「今、俺が家族と話せるのは、全部、祖母が間に入ってくれたからだよ。……本当に、感謝しかない」
「そんなことがあったんですね」
(大切なお祖母様を安心させたかったのね……)
カイルが契約結婚を持ち出したとき、婚約者にこだわっていたのは大切なお祖母様のためだったと改めて実感した。契約結婚をしてまで、お祖母様に恩返しをしたかったのだろう。
「お祖母様のこと、本当に大切に思っているんですね……」
カイルの思いを聞いて、胸が熱くなった。
「お祖母様にカイルの気持ちを伝えられるといいですね……いえ、伝えましょう」
「そうだな。聞いてくれて、ありがとう」
話し終えたカイルは少し照れくさそうに微笑む。私はそんな彼の手をそっと握った。
やがて、空が徐々に茜色に染まっていく頃、馬車はヴァンゼル領地に入る。
「祖母は、この領地で咲くラヴァンドがとても好きなんだ。昔、よく一緒に摘みに行ったんだよ」
緩やかな丘を登り始めると、カイルが静かに窓を開けた。甘く優しい香りが流れ込む。窓の外に広がるのは、見渡す限りのラヴァンドの花畑だった。
初めて見る一面が紫色の美しい景色に思わず息を呑む。
(こんなに広大な紫の景色、初めて見た……!)
「ラヴァンドは、古くからヴァンゼル領地に自生するハーブなんだ」
「本物を見るのは初めてです!」
ヴァンゼル領地の特産品であるラヴァンドは、甘く優しい香りが特徴で、香水や精油に使われ、心を落ち着かせたり炎症を和らげたりする力がある。
「夕方じゃなければ、もっと青みがかった紫が広がるよ。それから朝日に照らされるラヴァンドも幻想的なんだ」
「……きっと綺麗なんでしょうね」
「ああ。ローズマリーに見せたいな」
「はい、見てみたいです」
カイルの声に懐かしさが滲んでいる。私はそんな彼を見つめて頷いた。
紫の花穂が風に揺れて、夕陽の光を受けて輝いている。遠くの丘には石造りの修道院が見えた。どこまでもラヴァンドの花の海が続いていて、息を吸うたびに甘い香りが胸いっぱいに広がる。
馬車が丘を登りきると、一軒の屋敷が見えてきた。
「…………やっと着いた」
カイルが小さく呟く。固く握っていた拳が、ようやく開く。長い息を吐き出し、肩の力が抜けるのが分かった。
「ローズマリー、あれが祖母の住む家だよ」
彼の指差す方向を見つめた。淡い石壁に赤茶色の屋根、それから屋敷をぐるりと囲むラヴァンド畑が、夕陽に照らされて幻想的に茜色に輝いている。
(どうか無事でありますように……)
祈るような気持ちでお祖母様の住む屋敷を見つめる。繋いだ手をカイルに握りしめられて、私も握り返した。
ようやく馬車が止まり、扉が開く。カイルと勢いよく降りると執事が慌てたように口を開いた。
「お帰りなさいませ……カイル様、お待ちを! 実は——」
「話は後だ! 祖母は部屋にいるな?」
カイルは使用人の言葉を遮り、私の手を握ったまま玄関を駆け抜ける。私は驚きつつも、彼の勢いに引っ張られて一緒に走り出した。後ろから使用人が慌てた様子で何か言っていたが、彼は振り返りもしない。
廊下のラヴァンドのドライフラワーが、風にふわりと揺れて甘い香りを振りまく。どこをどう走ったのかよくわからないまま、カイルがある部屋の扉を勢いよく開けた。
——すると。
「あらあら、ずいぶん急いで来てくれたのね」
窓辺の籐椅子に座る、カイルと同じ紫色の瞳の婦人が、くすくすと楽しそうに笑っていた。
(……え?)
カイルが隣で固まる。私も言葉を失った。
「……お祖母様、危篤だと聞いていたのですが……?」
カイルの声が掠れる。
膝に薄い毛布をかけた祖母は、夕陽を浴びて穏やかに微笑んでいた。危篤のようには到底見えない。
「ふふっ、驚かせちゃったみたいね」
カイルのお祖母様は、悪戯っぽく目を細めた。












