問16.ペンダント
翌朝は、窓から差し込む朝日で目が覚めた。寝返りを打とうとして、いつもより沈み込むベッドの感触に体が止まる。
(……あれ?)
見上げた先は見慣れない天井だった。まぶたを瞬かせ、シーツを指先でそっと撫でる。高級そうなとろみのある心地よい感触に、ようやく昨夜の記憶がよみがえった。
(そうだ……カイルの家に泊まったんだ)
リーフが気持ちよさそうに寝息を立てているので、起こさないよう起き上がった。昨夜の出来事が夢ではなかったことを、知らない部屋を改めて見回して実感する。
着替えようとベッドから降りたところで、控えめなノックが響いた。少し間を置いて、落ち着いた声がした。
「ローズマリー奥様、お着替えのお手伝いをさせていただきます。入ってもよろしいでしょうか?」
(えっ、奥様……?)
奥様と呼ばれたことに動揺しながらも、落ち着いた女性の声に慌てて返事をする。
「は、はい……っ」
「おはようございます。ミランダと申します」
にっこりと柔らかな笑顔を浮かべた侍女服の女性が入ってきた。
銀髪を丁寧にまとめ、優しい皺の刻まれた目元が柔らかく細められている。年齢を重ねたほがらかな笑顔に、思わず肩の力が抜けた。
差し出してくれた温かいお湯で顔を洗う。
(こんな風に顔を洗うのっていつぶりだろう)
魔物に襲われる前の子爵邸のことを懐かしく思う。
洗顔が終わると、流れるように部屋の奥にあるクローゼットに連れていかれる。昨夜も見せてもらってはいたが、改めて眺めると、どれも上質な生地で、私の好みのものばかりで驚いてしまう。
「小物ひとつに至るまで、このクローゼットのものはすべて旦那様がお選びになったんですよ」
「えっ」
「ふふっ、愛されていますね。早く試験が終わって、奥様が旦那様と一緒に住む日を楽しみにしてます」
(洋服だけじゃなくて、全部を? それに、試験が終わったら一緒に住むと話しているのだろうか)
別居を当然のように受け入れてもらえていることにほっとする一方で、嘘をついている罪悪感に曖昧に笑うしかなかった。
視線を彷徨わせていると、動きやすそうな紫のワンピースに目が留まる。柔らかな生地に、胸元と裾に細かな刺繍が入った上品なデザインのものだ。
(これ、すごく素敵)
「こちらのワンピースになさいますか?」
「えっと、はい……お願いします」
「奥様にとても似合うと思いますよ」
着替えが終わると、ミランダさんに促されてドレッサーの前に座った。丁寧に髪を梳かれ、ゆるく編み込んだハーフアップに仕上げられていく様子を、鏡越しにじっと見つめる。優しく微笑むミランダさんと目が合う。
「とても可愛らしいです。旦那様もきっとお喜びになりますよ」
「っ!」
ポッと頬が熱くなった。
化粧のおかげでいつもより上品に見えて、このワンピースも意外と似合ってるかも、と鏡の中の私を見てしまう。
(カイルもそう思ってくれたらいいな)
そんなことを思いながら、いつの間に起きてきたリーフと一緒に部屋を出た。
ミランダさんに案内されてダイニングルームに向かう。
長い廊下を歩くと、大きな窓からは夏の花々が咲き乱れる中庭が見えた。中庭の中央に噴水があり、遠くに温室もある。
(高級住宅街だとわかっていたけど、想像を遙かに超えていた。ここまですごいなんて……)
廊下にさりげなく飾られた磨き上げられた大理石の彫像や、繊細なガラス細工の調度品も、どれも高価なものばかり。困窮する前の子爵邸と比べてもとても豪華だ。
感嘆しながら歩いていると、廊下の突き当たりに重厚な両開き扉が見えてくる。通されるとカイルがすでに座って待っていた。
「おはよう、ローズマリー」
「おはようございます……すみません、寝坊しちゃいましたか?」
「俺も今来たところだよ。よく眠れた?」
「はい、とても……寝心地がよくて」
私は大きく頷いた。
「それならよかった。ローズマリー、その服、よく似合ってるよ」
「……ありがとうございます」
朝から爽やかな笑顔が眩しい。私は頬が熱くなるのを感じながら、微笑み返す。
「そうだ、使用人を紹介するね。ミランダはもう挨拶したよな」
「はい。着替えも手伝ってもらいました」
ミランダに視線を向けると微笑まれる。
穏やかな足音が近づいてきた。銀髪交じりで皺の刻まれた優しい顔立ちの男性が、丁寧に頭を下げる。
「おはようございます、ローズマリー様。家令を務めております、ヴィクターと申します」
「おはようございます」
「ヴィクターはミランダと夫婦なんだ。ミランダは俺の乳母でね」
カイルの言葉にヴィクターは柔らかく微笑み、静かに言葉を続けた。
「主に私ども夫婦と息子で、この屋敷の管理をさせていただいております。二人の息子が庭の手入れと馬の世話を担当し、家族で使用人棟に住まわせていただいております。何かお困りのことがございましたら、遠慮なくお申し付けください」
カイルが軽く頷きながら、口を開く。
「ヴィクターもミランダと同じく、俺が幼い時から世話になってるんだ」
ヴィクターが穏やかに笑みを深めた。
「ええ、本当に。坊ちゃま……いえ、旦那様がこんな穏やかなお顔をなさるのは、本当に久しぶりでございます」
「ヴィ、ヴィクター……!」
カイルが慌てて声を上げ、顔を赤らめて視線を逸らした。私はその言葉にドキッとして、思わずカイルの横顔を見つめてしまう。
(……私のせい? 私が来てから、カイルが変わったってこと?)
カイルが咳払いをした。
「……ヴィクター、ミランダ。ありがとう。もうここからは俺たちだけで大丈夫だ。朝食の片付けはあとでいいから、休んでてくれ」
ヴィクターが意味深に目を細めて微笑んだが、すぐに丁寧に頭を下げた。
「かしこまりました。では、何かございましたらお呼びくださいませ」
ミランダも柔らかく会釈をし、二人は静かにダイニングルームを後にした。扉が閉まる音が響くと、カイルは小さく息を吐いて肩を落とした。
「……すまない。あの二人は幼い頃から面倒見てもらってるから、敵わなくてな」
私は頰を押さえながら、くすっと笑ってしまう。そんな私を見たカイルが、取り繕うように笑みを浮かべた。
「ローズマリー、冷めてしまうから朝食を食べようか」
「そ、そうですね」
「にゃお」
私はこくりと頷く。リーフも目の前に置いてあったご飯を、嬉しそうに喉を鳴らしながら食べはじめた。
カイルと向かい合って座ると、なんだか気恥ずかしくて視線をテーブルに向ける。
温かいスープ、焼きたてのパンと具だくさんなキッシュ、彩り豊かなサラダ、そしてふわふわのスクランブルエッグが並んでいた。
「彩りがよくて、目移りしますね」
「おかわりもあるから沢山食べてよ。お勧めはスープかな」
「そうなんですね。じゃあスープからいただきます」
勧められたスープを一口飲むと、優しいハーブの香りが広がる。身体の喜ぶような美味しさに、思わず頬が緩む。
「とても美味しいです」
「よかった。そのスープだけ、俺が作ったんだ」
「えっ……すごいですね」
「冒険者時代に知ったレシピで、せっかくローズマリーがいるから俺もご馳走したくて……口に合ってよかったよ」
カイルが少し照れくさそうに笑う。
(なんだか新婚みたい)
「すごく美味しいです、ありがとうございます」
静かな朝の時間が流れる。
半分くらい食べ終わったあたりでカイルが口を開いた。
「ローズマリー、今日は休みだったよな?」
「ええ、三日間お休みをいただいてます」
「素材鑑定士の勉強するなら付き合うよ」
カイルは軽く視線を逸らしてから、ぼそりと付け加えた。
「…………帰るなら、家まで送るけど」
(帰ってほしくない、ってこと……?)
拗ねたような言い方に、私はカイルの横顔をそっと見つめた。彼は照れ隠しのように軽く笑う。
「どっちにする?」
「えっと、昨日、約束していたドラゴンの爪のコレクションを見せて欲しいです。素材鑑定士の勉強もしたいですね」
最近、涼風祭の準備やブリーズウールの査定が忙しくてあまり勉強できていなかった。カイルの家にある貴重な素材も見せてもらえるなら、お言葉に甘えたい。
「もちろん。面白い素材も色々あるから、いい機会だし説明するよ」
「ありがとうございます」
食事が終わり、ドラゴンの爪が置いてあるリビングに移動する。
これから勉強を始めようとカイルが棚から本を取り出そうとした時、突然カイルの胸元が光った。
「っ……!」
私は思わず見張った。
驚いてカイルを見ていると、彼は首にかけていた銀のペンダントを胸元から取り出す。家紋が刻まれたペンダントが、まばゆい光を放っている。
カイルの手に置かれたペンダントがぐにゃりと変形を始めた。表面が薄く広がり、羊皮紙の手紙へと変わっていく。
(……あれは)
知識としてしか知らなかった、高価な使い切りの緊急通信魔道具だ。
「……実家からの緊急連絡だ」
カイルが震える手で手紙を見つめる。
向かい合っている私の位置からは内容はわからない。ただ、手紙の裏側に光の文字が透けて、焼き付けるような勢いで浮かび上がっていくのが見える。最後の文字が焼き付いた直後、光はぱたりと収まった。
カイルの声が、わずかに掠れた。
「……祖母が、危篤だそうだ」
「えっ……」
私は息を呑んだ。
カイルは手紙を呆然と見つめ、小さく呟いた。いつも穏やかな彼の瞳に、深い動揺と悲痛が浮かんでいる。
「ごめん、ローズマリー。勉強はまた今度にしてもいいかな? 送って行くよ……」
「カイルはどうするんですか……?」
「ローズマリーを送ったら、すぐに祖母のところに向かうよ」
私は声を絞り出した。
「……何か、私にできること、ないですか?」
カイルが一瞬、息を呑むように顔を上げた。彼の瞳に、驚きとほんの少しの迷いが浮かぶ。
「祖母は……ローズマリーに会いたがっていたから、一緒に来てくれたら——」
言葉の途中で、カイルは慌てて口を閉じた。
「……いや、忘れてくれ。契約に、そんな義務はないから」
「あります!」
私は思わず声を強めた。
「カイルのお祖母様を安心させるために夫婦のふりをする——それが、この契約です」
いつも余裕たっぷりな彼が遠慮している姿が、かえって胸を締め付けた。こんな風に悲しむ彼を、一人にしたくない。
「だから……、お祖母様のところへ私も連れて行ってもらえませんか?」
迷う彼の手を、両手でぎゅっと包み込んだ。
胸の奥が熱くなるのを感じながら、私は深く息を吸った。
「私は……カイルの妻なんですから」
「ありがとう……。一緒に来てくれると嬉しい」
「きっと大丈夫です。こんな時こそ一緒にいさせてください」
「にゃん」
ヴィクターとミランダが素早く用意してくれた荷物を受け取り、私たちはすぐに屋敷を発った。カイルの祖母の元へと——












