問14.花火
モスのうめき声が狭い路地に響いている。
路地の薄暗さで顔がはっきり見えず、しかも腕を捻り上げられて痛みで振り向けないモスは、掠れた声で叫んだ。
「て、てめえ、誰だ!」
「名乗らず申し訳なかったな。ギルド長のカイル・ヴァンセルだ」
(来てくれた……!)
肩にリーフを乗せたカイルが、モスの腕をひねり上げたまま静かに名乗った。路地の薄暗い灯りに照らされたカイルの口元は柔らかな笑みを浮かべているのに、目はまったく笑っていない。
私が全力で抵抗してもびくともしなかった腕を、片手でいとも簡単に抑え込んでいる。
「君はモスだな。うちの大切な職員に、何をしている?」
低く、氷のような冷たい声。
「い、いや……彼女と少し話がしたくて……」
「へえ。ローズマリー嬢は彼と話したいのか?」
カイルに視線を向けられ、慌てて首を激しく横に振った。
「ありません! 絶対にありえません!」
カイルに問われて答える。私の答えに小さく頷いた彼が、モスを見下ろしたまま告げた。
「今後、ローズマリーあるいは他のギルド関係者に迷惑行為を行った場合、冒険者資格を即時剥奪し、街からの永久追放とする」
モスの顔から血の気が引いた。唇がわなわな震え、掠れた声が漏れる。
「……なっ……そんな……」
「先月の討伐失敗でランク維持審査は保留中だ。今月も依頼ゼロが続いている。これ以上問題を起こせば、ギルド本部に上申する理由は山ほどある」
カイルは言葉を切り、わずかに微笑んだ。その笑みから底知れぬ威圧を感じて、路地の空気がふるりと冷たく感じた。
「だが——今日はローズマリー嬢とデートなんだ。君のような男の処罰に、これ以上時間を費やしたくない」
「はあ……? デート? ローズマリーのくせに、浮気かよ!」
モスが私を睨みつける。その言葉に胸の奥がちくりと痛んだ。
(どうしてこんな男に……尽くしてたんだろう)
今となっては信じられない。ただ、過去の自分が費やしてきた時間と想いが、胸の奥でずしりと鉛のように重く感じて、視線を地面に落とした。
「今からギルドで処罰を受けに行くか、二度とローズマリーの前に姿を現さないと誓うか、好きな方を選べ」
「…………ない」
「なんだって?」
「二度と現れねえよ! 大体、こんな地味で真面目なだけの女、こっちから願い下げだ!」
その瞬間、カイルがわずかに目を細めた。
「ローズマリーの素晴らしさが理解できないとは、本当に可哀想な男だな」
どこか哀れむような声。
カイルの言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなっていく。モスの暴言で冷えていた心が、ようやくほぐれていくのを感じた。
「もう行け」
雑に背中を押されると、モスは顔を真っ赤にして「ちっ」と吐き捨て、人混みに紛れて逃げていった。
路地に静けさが戻る。
カイルがゆっくりと私の方を向き、いつもの穏やかな表情に戻っていた。
「遅くなってすまなかった。大丈夫か?」
「……大丈夫です。ありがとうございます」
優しくて労わるような声に、震えていた肩の力がようやく抜ける。安堵に滲んだ声でカイルを見つめて伝えれば、薄暗がりで表情はよく見えなかったけれど、ほっとしたような息を吐く気配がした。
「リーフが俺を呼びにきてくれたんだ。すごい勢いで肩に乗ってきてな」
「……リーフ、ありがとう。私だけでは抵抗できなくて……本当に助かりました」
「にゃあん」
誇らしげに胸を張るリーフの頭を、カイルと一緒に撫でる。 リーフは満足そうに目を細め、私たちの手に交互に顔をすりつけた。小さな体から伝わる温もりに、助かったという実感が湧いてくる。
「モスにはああ言ったが、花火はやめて家まで送ろうか?」
「そんな! ずっと楽しみにしていたんです……」
「無理はしてないか?」
「はい、してません……!」
カイルに顔を覗き込まれる。いつもより近い距離に、心臓が跳ねた。いつもの爽やかな香りがふわりと鼻先を掠めて、頬が熱くなる。
「それなら、花火デートを始めようか」
「にゃ」
私の返事より先に返事をするリーフ。カイルと目が合い自然に笑みがこぼれる。彼の肩からリーフが私の肩に戻ってきた。
「さあ、行こう」
「はい」
二人並んで路地を出る。
肩が触れそうなくらいの距離で歩くと、遠くから聞こえる賑やかな声や音楽が少しずつ近づいてきた。さっきまでの恐怖が遠のいて、代わりに違う種類のドキドキが胸に広がっていく。
花火の見える丘に着いた。
丘の上は祭りの喧騒から少し離れていて、夜風が心地よく頬を撫でる。眼下に広がる祭りの灯りがやわらかくきらめき、遠くで屋台の明かりや人々のざわめきが小さく聞こえてきた。
「ローズマリー、こっちだ」
カイルに案内された区画に目を見張る。
木の柵で仕切られた区画の中には、ふかふかのクッションが敷かれた長いベンチのようなソファが置かれていた。足元には小さな明かりが灯り、柔らかな橙色の光が周りをほのかに照らしている。普通の観客席とは明らかに違う、贅沢な空間に思わず息を飲んだ。
「あの、ここ……花火の特等席ですよね……?」
「ああ、そうだよ。今日はデートだからな」
パチンとウインクされて、頬に熱が集まる。
きっと、この特等席を取るのに骨を折ってくれているはずなのに、それを感じさせないスマートさと優しさに胸がきゅう、と音を立てる。
(大切にしてもらっているというのが、こんなにも嬉しいなんて……)
カイルに流れるようにエスコートされて、ソファに並んで腰を下ろした。軽くつまめる軽食や飲み物も用意されていて、至れり尽くせりの空間だ。リーフも気に入ったのか、さっさとふかふかのソファの上で毛繕いをはじめている。
(こんなロマンチックな場所に連れてきてもらえるなんて……カイルも、今日を楽しみにしていてくれたんだよね?)
「えっと、あの、——カイル、こんな素敵な場所に連れてきてくださって、ありがとうございます。こんな素敵な場所は初めてで、すごく嬉しいです……」
カイルを見つめて答えると、「あー……」と小さく呟きながら片手で顔を覆う。
「素直なローズマリーの破壊力抜群だな……」
「……? なにか言いましたか?」
「いや、今日のローズマリーのワンピース似合ってるなと思って」
「あ、ありがとうございます」
甘酸っぱいような空気の中で沈黙が流れ、隣にいるカイルの体温がほのかに伝わってくる。心臓の音が聞こえないか心配になってしまう。
その沈黙を打ち破るように拡声の魔道具から花火開始のアナウンスが流れた。風の大精霊に皆で祈祷を捧げ終えると——
——ドンッ!
夜空に大輪の花火が打ち上がった。
腹の底に響く音が轟き、涼風祭の夜を震わせる。濃紺の空に黄金の光が広がって巨大な花を咲かせ、金色の火の粉が星屑のようにきらきらと散る。それは儚い光の雨のように消え、周囲の歓声が風に乗って広がっていった。
「綺麗……」
「ああ、見事なものだな」
風の大精霊への祈りを込めた花火は、次々と形を変えて夜空を彩り、私とカイルの心を奪っていく。
次々と打ち上がる色とりどりの花火の美しさに、見惚れてしまった。まるで世界に二人きりみたいな気持ちになってしまう。さっきまで頭にあったモスとの出来事はすっかり忘れてしまっていた。
最後の花火が打ち上がると、周りの人たちが帰り支度を始めていく。
(……まだ帰りたくないな)
まだ花火の余韻に浸っていたい。夜空に残された星を見つめていた。
「帰宅する人たちで道が混雑しているだろうから、もう少しここで待っていよう。家まで送るよ」
(カイルも、この時間が終わるのを惜しんでくれている……?)
「……ありがとうございます」
しばらく並んで夜風に当たっていると、ふと、モスの言葉が頭をよぎった。
『今からお前の家に行くぞ』
思い出した途端、心臓がバクバクと嫌な音を立てる。花火の余韻が一瞬で遠のいた。
「ローズマリー、どうした?」
「な、なんでもないです」
カイルの優しい視線が、私を捉える。
「本当に?」
「……本当です」
(もしもの話で、これ以上迷惑をかけられない……)
「そっか。それなら教えて」
「えっ?」
「なんでもないなら話を聞かせてよ」
「ええ……?」
驚いてカイルを見上げると、にっこりと笑った彼と目が合った。
(そ、そんな理屈を言われるなんて。……ううん、違う。私が話しやすいようにしてくれてるんだ)
カイルの優しさに胸が熱くなる。いつもこうやって私が困っていると手を差し伸べてくれる。ひとつ深呼吸をした後、カイルを見つめた。
「さっき、モスに『お前の家に行く』って言われたんです……きっと来ないと思うんですけど、でも、もし家に来たら……怖いなって思ってしまって……」
話しながら先ほどのことを思い出して、手が震えるのを隠すように握りしめた。
「……怖いなら、俺の家に来ないか? 心配なんだ」
「えっ……」
「遠慮しないで。俺の家は、ローズマリーの家でもあるわけだしな」
「えぇ……?」
(契約結婚しているけど、それとこれは違いませんか?)
「もちろん変なことはしない。ただ、心配なんだ」
カイルの手が伸びてきて、私の握りしめていた手を優しく覆う。彼の体温が私に広がって、心配している気持ちが伝わってくるみたいで安心する。
(甘えていいのかな……?)
逡巡していると、カイルが私を覗きこむ。
「俺が討伐したドラゴンの爪コレクションができたんだけど——見たくない?」
「っ! そ、それは…………見たいです」
「じゃあ、決まりだ」
カイルに手を引かれ、立ち上がる。家にお邪魔するなんて、想像しただけで心臓が飛び出しそう。「にゃあん」と鳴いたリーフが肩に乗り、私たちは並んで丘を下り始めた。
怖かったはずの夜が、いつの間にかドキドキする夜に変わっていた。












