学院の怪談
昼間しか知らない僕にとって、夕暮れ時の学院はまるで別の場所だった。見慣れているはずの廊下や窓も、影の伸び方ひとつで、知らない場所みたいに見えてしまう。
(……やっぱり、怖い)
しかも、これから怖い話をしながら、その中を歩き回るのだと思うと、どうしても足が前に出ない。気付けば、先頭を歩くバルド達との距離が、少しずつ開いていた。だけど、それが分かっていても、その差を埋めるように足を動かすことができない。
「おい」
「な、何!?」
突然、前を歩いていたネアが振り返りながら声をかけてきたから、自分でも驚くくらい変な声が出た。
「裾を引っ張るな。歩きにくい」
「ご、ごめん…」
言われて初めて気付いたけれど、どうやら僕は無意識のうちに、ネアの裾をぎゅっと掴んでいたらしい。慌ててそっと手を離すと、強く握っていたせいで、そこだけ少し皺になっていた。
でも、そこから手を離したのはいいけれど、今度は何も掴まるものがなくなって、余計に心細くなる。そんな僕の様子を見たネアが、呆れを滲ませた声で言った。
「怖いなら、断ればよかっただろう」
「……言い出せなくて」
コンラットも怖がっていないのに、僕一人だけ怖がっているのが、何だか情けない。そう思うと、自然と視線が足元へ落ちる。すると、頭の上から小さなため息が聞こえた。
「はぁ……。今回は掴んでていいが、あんまり引っ張るなよ」
「……うん!」
その言葉に、思わず顔を上げると、ネアはどこか仕方なさそうな顔をしていた。けれど、それでも裾を掴むことを許してくれた。
(ネアって、こういう所あるんだよな……)
冷たいようでいて、ちゃんと優しい。そんなネアの言葉に甘えながら、僕は少し遠慮がちに、もう一度その裾を握った。すると、先頭を歩いていたバルドが、わざとらしく声を潜めて話し始める。
「兄貴が聞いたらしいんだけどさ……この先にある教室に遅くまで残っていると、時々、誰かの話し声が聞こえてくるらしいんだよ」
(……やめて)
思わず、ネアの裾を強く握りしめる。すると、ネアがそれに気付いて軽く視線を向けてくる。だけど、バルドの話は止まらない。
「それで、その声について行くと……気付いたら、全然知らない場所にいるんだってよ……」
(やめてってば……!)
耳を塞ぎたい。でも、この手だけは離したくない。そんな矛盾した気持ちのまま、僕は引きずられるようにして、バルド達の後をついていった。
やがて、問題の教室の前に辿り着くと、自然と全員が口を閉ざし、静かに耳を澄ませた。
(お願い……何も聞こえないで……)
息を潜めている時間がやけに長く感じる。そんな中、ぽつりとコンラットが呟いた。
「……何も聞こえませんね」
「……聞こえないな」
「そもそも、その声に着いて行かなければいいだけで、不審な声に着いて行くことの方がどうかしているがな」
ネアの冷静な言葉に、ふっと肩の力が抜ける。
(……よかった)
いざという時の対処法を知ったからか、胸の奥に張りついていた緊張が、少しだけほどけた。すると、場を仕切り直すように、バルドが声を上げる。
「次!次、行こう!」
(僕としても、早く終わらせたい……)
何か聞こえる前にこの場を離れたかった僕は、その言葉に従うように足を動かした。けれど、その後も、夜に鳴るはずだというピアノのある部屋に行っても、勝手に動くと言われている彫刻の前に立っても、何ひとつ起こらなかった。
「……何も起こらないな」
わざわざ許可まで取ったのに、何の収穫もなかったからか、バルドが残念そうに肩を落とす。すると、ネアが淡々とした声で言った。
「それに、まったく怖くもなかったな」
「お前が色々と言うからだろ!!」
その場所に行くたびに、ネアが冷静な言葉を挟むせいか、僕でさえ最初よりずっと怖さが薄れていた。けれど、そう言われたネアは悪びれる様子もなく、堂々と言い返す。
「本当のことを言っただけだ。……まぁ、どれも怖がる必要がないものだと分かっただけでも、十分だろう」
そう言って、ネアがふと僕へと視線を向けてくる。
僕としても、もし全部本当だったら、もう学院に来るのが嫌になっていたかもしれない。だから、ネアがいてくれて少し助かった。そんなことを思っていると、バルドが何かを思い出したように声を上げた。
「そういえば、コンラットが聞いた話って、どんな話だったんだ?」
「私が聞いたのは、鏡の話です」
バルドが尋ねると、コンラットが静かに語り始めた。
「今は倉庫として使われている部屋に置かれている鏡は、何でも異世界に繋がっているという噂があったそうです。それで、その噂を確かめるために、ある生徒が夜中に忍び込んだそうなんですが……その生徒は、そのまま帰ってこなかったそうです……」
ぞわりと、背筋を冷たいものが這い上がる。
「今の俺達みたいだな」
「ネア!やめてよ!!」
たぶん、ネアとしては深い意味もなく口にしただけなんだろうけれど、今の僕には洒落にならない。だから、思わず大きな声が出た。
「……悪い」
僕が怖いのを知っているだけに、さすがに失言だったと思ったのか、ネアも少し気まずそうに短く謝った。
(……帰りたい)
そんなことを思いながら、こんな話を聞いてきたコンラットに、理不尽だと分かっていながらも、ほんの少しだけ八つ当たりじみた感情を抱いてしまう。けれど、そんな僕の心情などお構いなしに、バルドが勢いよく声を上げた。
「よし! 行ってみよう!」
「……行くの!?」
行きたくないという気持ちを込めて問いかければ、返ってきたのはあまりにも当然のような声だった。
「ここまで来たのに、行かない理由がないだろ?」
その言葉に、僕の顔から一気に希望が消える。そんな僕の様子を見たバルドは、ようやく何かに気付いたのか、少し気まずそうに眉を下げた。
「やっぱり怖いのか……?なら、リュカはここに残って待ってるか?」
「行くよ!!」
「お、おぅ……」
バルドなりに気を遣ってくれたのかもしれない。でも、こんな場所に一人で残される方が、どう考えても怖い。その気持ちを込めて思わず大きな声を上げると、バルドは少し気圧されたように頷いていた。
もう怖がっているのがばれているのもあって、ほとんどネアを盾にするように、僕はみんなの後をついていった。その様子に、みんなも最初の時より少しだけ歩く速度を落としてくれる。ゆっくりと目的の場所へと進んで行くと、それらしい部屋の前で立ち止まり、その扉が開かれる。
「あれか?」
それらしいのは見えるけれど、中は色々な物が置かれていて見通しが悪い。それに、部屋が暗いのもあって、よく分からない。それもあって、バルドが灯りをつけると、ようやく部屋の奥にそれらしきものが見えた。
すると、バルド達は迷いなく中へと入っていく。けれど、僕はその場から動けず、扉の前に立ったまま、その背中を見送っていた。やがて、鏡の前まで行くと、覗き込むようにして調べ始める。
(⋯⋯よく覗けるな)
鏡は部屋に備え付けられているから、確かめるには近付いて中を覗き込むしかないのだろう。けれど、ここから見た限りでは、何か仕掛けがあるようにも見えない。そんなことを考えながら、僕は少し離れた場所で様子を見守っていた。
「……何も起こらないな」
触るどころか、軽く叩いてみたりもしたバルドだったけれど、結局何も起きず、諦めたように呟いた。すると、ネアが淡々と言う。
「そろそろ時間だ。帰るぞ」
「⋯⋯そうだな。帰るか」
(……ようやく帰れる)
がっかりした様子のバルドには悪いけれど、その言葉に、ようやく胸を撫で下ろした。そうして僕達は、ネアの言葉を受けて来た道を引き返していく。だけど、気付けば外はすっかり暗くなっていて、学院の中も、来た時よりずっと静まり返っていた。それに、あまり足を踏み入れることのない学院の奥まで来ていたからか、廊下の窓の外には、鬱蒼とした森が広がっているのが見える。
(うわぁ……)
普段見ることのない場所というのもあるけれど、兄様に言われていなくても、近付きたくないと思ってしまう雰囲気があった。そんなことを思っていると、それに気付いたバルドが声を上げる。
「なぁ?ちょっと森に寄ってから帰らないか?」
「何を言っているんですか。リオ先生とも近付かないと約束していますし、急いで戻らないと約束の時間も過ぎてしまうんですよ!」
「そうだよ!!駄目だよ!!」
色々な場所を回っているうちに、思っていたよりも時間が経っていた。そのせいで、すでに約束の時間も間近に迫っていて、ここから戻るだけでもぎりぎりだ。だからこそ、僕達が揃って止めに入る。けれど、消化不良のまま終わるのが嫌だったのか、バルドは食い下がった。
「ちょっと通り過ぎるだけでいいから!」
兄様が止めるくらいなら、何かあるんじゃないか。そんな期待が見え隠れしている。でも、だからこそ僕としては絶対に行きたくない。それでも、このままでは引き下がらなさそうな空気だった。
「すぐに通り過ぎるだけなら、そこまで時間もかからないんじゃないか?」
「……そうですね。ここで押し問答している時間の方が無駄ですし……」
「よし!」
いつもの様子を知っているのもあって、仕方なさそうな顔をしながら、二人は渋々といった様子で頷く。それを見て、バルドが嬉しそうに声を上げる。けれど、もう帰れると思っていた僕は、内心で小さく不満をこぼした。
(まだ……帰らないの……)
そうして僕達は、ほんの少しだけの約束で、森の方へと足を向けることになった。
森へと続く道は、夜ということもあって人の気配がなかった。それに、森を囲うように三メートルほどの高い壁がそびえ立っているせいか、月明かりさえほとんど差し込まない。そんな薄暗い道を進んで行くと、やがて森の入口が見えてきた。けれど、学院が管理している森なだけあって、勝手に入れないようにしているのだろう。入口は重そうな門で固く閉ざされていた。
「これで満足ですね。では、帰りますよ……って!何してるんですか!?」
「中の様子が、少し見えないかと思って」
近くまで来てみたものの、高い壁と門に遮られて、森どころか木の一本すらまともに見えない。それだけに諦めきれないのか、バルドは隙間から中を覗こうとしていた。けれど、暗さもあって、どうやら何も見えないらしい。
「見るだけって言ったじゃないですか!ほら、もう帰りますよ!」
「分かった、分かったから!そんなに引っ張るなよ!」
門の周りをウロウロとしていたバルドを、コンラットがいつもの調子で半ば無理やり引っ張っていく。けれど、そのやり取りの声が、昼間とは違って、静まり返った夜道に妙に大きく響いた。
「そんなに騒いだら、まずいよ!!」
許可をもらっていたのは、あくまで学院の中だけであり、森には近付くなと、ちゃんと念を押されていた。それに、この森には魔物もいる。そのため、魔物討伐の授業がある上級生以外は立ち入り禁止になっている場所だ。
(⋯⋯絶対に怒られる!)
だからこそ、こんなところにいるのが誰かに見られたら、大変なことになる。そう思って、誰かが来る前に慌てて止めようとしたけれど、鋭い怒鳴り声が夜道に響いた。
「そこで何をしている!」
その声に、びくりと肩を震わせて振り向く。すると、そこに立っていたのは、僕が一番苦手にしているリータス先生だった。しかも、ただでさえ吊り上がっている眉が、今はいつも以上に険しく吊り上がっていた。
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