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兄としての威厳(オルフェ視点)


学院を卒業してから、父上の仕事の一部を任されるようになった。それは、期待であると同時に、試されているという意味でもある。


資料や書類を相手にするだけなら、問題はない。むしろ、そういった作業は得意だ。


決められた手順を正確に踏むことは、父上から学び、私自身も身に染みついているやり方だった。数字も、契約文も、嘘をつかない。そこには感情が入り込む余地がない。だから安心できるが、店の経営は違う。人である以上は感情があり、思惑がある。そして、それは私が最も苦手とするものでもあった。


(……人を相手にするのは苦手だ)


周囲から、何を考えているのか分からないと言われるのには慣れている。近寄りがたい、怖い、冷たい。そんな言葉も、これまで幾度となく耳にしてきた。だが、それ以上に、彼らと私とでは価値観があまりにも違いすぎるのだ。曖昧な笑顔や、意味のない世辞。目的の見えない言葉の応酬。そういったものが、どうしても理解できなかったし、好きにもなれなかった。だから、私に気軽に話しかけてくる人間など、レオンくらいしかいなかった。


少なくとも、新年祭までは。


あの日を境に、以前は視線すら合わせなかった者たちが、妙に距離を詰めてくるようになった。その変化に、私は少なからず戸惑ったのを覚えている。好意とも、打算ともつかない視線を向けられるたび、レオンは面白がっていたが、私は何も面白くもない。だからこそ、初めて店の者たちの前に立った時、彼らの表情が一斉に強張ったのを見た瞬間、私はほんのわずかに安堵していた。


だが、その安堵は長くは続かなかった。私が一歩踏み出しただけで、まるで冷気を放ったかのように、場の空気が凍りつく。誰も声を出さず、誰も動かない。その静けさは、幸先としてはあまりにも悪い。その様子を見て、父上が静かに口を開いた。


「無理だと判断したなら、いつでも辞めていい」


その言葉が、気遣いから出たものだということは分かっている。分かっているからこそ、胸の奥に別の感情が灯った。


(私は、そんな言葉に甘えるほど、弱くはない)


ここで退けば、弟に見せられない不甲斐ない背中になってしまう。これは、私が選んだ道だからこそ、そんな姿を見せるわけにはいかない。私が見せるべきなのは、頼れる兄の姿。それ以外にない。


徐々に仕事に慣れてくると、ドミニクは、父上が残していった仕事までも私に回すようになった。


見返してやりたいわけではない。しかし、父上が積み上げてきた仕事を、一つずつ片付けていく感覚は、確かに追いついている。そう思える瞬間があり、その感覚が妙に心地よい。


そんな慣れない仕事をこなしながらも、リュカと過ごす時間だけは、できる限り確保するよう努めていた。そのわずかな時間が、私の楽しみになっていたため、父上から頼まれていたリュカの件も、その時に時間を作ればいい。そう思っていたのだ。だが、その前提は、あっさりと崩された。


「週末、クラスメイトを屋敷に呼んでも良い?」


その日は、外に出る用事をすべて片付けるつもりでいた。けれど、私の予定など関係なく、リュカにはリュカの世界がある。それは当たり前のことなのに、胸の奥を掠めた感覚は、どうしても説明がつかなかった。まるで、弟を誰かに取られるような。そんな、意味の分からない感情。


そのせいで、リュカに「書庫の本を読んでも良いか」と聞かれた時、私は首を傾げた振りをしながらも、つい、屋敷でなくても事足りるだろう、などという言い方をしてしまった。


(……何を言っている)


口に出してから後悔した。しかも、図書館での件を詳しく聞けば、その原因は、どう考えても私にある。


(何とも、格好がつかない)


仕事を前倒しで片付け、今日の出来事を聞けば、すでに勉強を教えてもらう約束までしているという。


「勉強なら、私が教えるというのに……」


ぽろりと零れた言葉は、思った以上に大きかったらしく、リュカが不思議そうにこちらを見た。


「何か言った?」


「……何も」


自分の半分も生きていない相手に、嫉妬のような感情を抱くなど、恥でしかない。そんなものを、弟に知られるわけにはいかない。だから私は慌てて否定し、兄として正しい顔を取り繕うことにした。


「明日は、何か予定はあるか?」


友人が明日来ないと知り、情けないほどの安堵が胸に広がるのを感じながら、部屋へ戻ろうとするリュカにそう尋ねた。予定はない、という答えに、私は内心で息をつく。ならば、他の予定が入り込む前に、先に押さえてしまえてしまわなければと、私はすぐに時間を空けておくよう頼んだ。


翌日。


昼までに終わらせるつもりだった仕事は、思っているようには進まなかった。時計に目をやれば、針はすでに十二時を指そうとしている。昼食を抜けば、余計な心配をかけることになるため、行かないという選択肢は、最初からなかった。だが、私が頼んで空けてもらった時間だ。私の都合で断ることだけは、どうしてもしたくない。しかし、仕事を疎かにするわけにもいかなかった。だから、先に来ていたリュカに一言断り、食事を急いで済ませて、すぐに食堂を後にした。


急ぎ執務室へ戻り、残りの仕事に手を付け、もう少しで終わる。そう思った時、控えめなノックの音が響いた。続いて聞こえたのは、遠慮がちなリュカの声だったため、入室を許可し、少し待つように頼んだ。私は残りの書類へと視線を戻し、終わらせるため手を動かした。


ドミニクも別件で手が空きそうにないため、教本は私が保管庫へ取りに行くつもりだった。だが、忙しさにかまけて、結局それもできていない。


メイドに頼むことも考えたが、すぐに思い直す。召喚に関する教本は、召喚獣を持つ者にしか配布されない。そのため、使える使えないに関わらず、裏で売れば相応の値が付く。手に入れたところで使えるわけではないが、それもあり、その教本が置かれている場所には、他にも貴重な書物が数多く保管されている。だからこそ、我が屋敷のメイドであっても、軽々しく人を入れるわけにはいかない。


(なによりも、信用していないからな……)


去年、リュカの件でメイドを一新したが、信用できるかは別だ。そのため、リュカ自身に頼む、という選択肢も一瞬だけ頭をよぎったが、あの日の出来事が、はっきりと脳裏に浮かぶ。


(同じ轍は、二度と踏まない)


あの日、私はレオンに保管庫の本を取りに行かせたが、レオンはその途中にあるギャラリーに足を踏み入れ、そこに飾られていた、あの絵を見た。


(……二度と思い出したくもない)


あの時の笑いは、後になってから、馬鹿にしたものではなかったと知ったが、それでも、あの瞬間に胸を焼いた羞恥心だけは、今も忘れられていない。だからこそ、それ以来、ギャラリーにあった絵は片付けられ、飾られることはなくなった。しかし、父上は仕事を放棄して講義をするほど、あの絵を気に入っていた。だからこそ、万が一、という可能性を、私は捨てきれなかった。


そのため、リュカがギャラリーの扉を見つけ、開けようとした瞬間、私は反射的に声を上げて止めた。扉が開いたその刹那、私は思わず視線を走らせ、“あの場所”を探していた。そして、壁一面に並ぶ肖像画の中に、例の絵は飾られていなかった。


(……良かった)


胸の奥から、安堵の息が零れる。だが、その安堵は、長くは続かなかった。順に絵を眺めていたリュカが、ふと足を止め、不思議そうに首を傾げる。


「兄様。何でここだけ絵がないの?」


当然の疑問だが、答えを持たない私は、完全に思考が止まった。


「そ、それは……」


「それは?」


追い打ちのような声に、胸が詰まる。咄嗟に嘘をつこうとも思ったが、リュカに対してだけは、そんな真似はしたくなかった。そのため、言葉は喉の奥で凍りついたまま、出てこない。


「……私は先に行って、本を探してくる」


結局、言い訳すらできず、私は逃げるようにギャラリーを後にした。当然、リュカが納得するはずもない。保管庫へ向かう間も、理由を尋ねる声が背中に刺さる。だが―、自分の幼い頃の醜態など、口にできるはずがなかった。


リュカの様子を見る限り、このままでは両親にも尋ねるだろう。しかし、兄としての威厳を守るため、それだけは避けなければならない。私は口を閉ざしながらも、あの場で、もっともらしい理由を一つでも口にできていれば、こんなことにはならなかったと後悔した。


(何をしている……私は)


まともな言葉ひとつ紡げない己の未熟さを噛みしめながら、それでも足を止めるわけにはいかない。この流れを変える理由を、求めるように、私は保管庫へと急いだのだった。

お読み下さりありがとうございます

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