第9話:お祖母様の、しおり
月の食費が、目に見えて、下がった。
ベンケ商店の注文書を、台所の入用どおりに改めただけで、それだけ下がった。
献立は、貧しくなっていない。むしろ、グレーテさんの竈に、二つ目の火が入る日が増えた。注文が入用と合うと、台所は、無駄を出すまいと張り切るものなのだ。
下がった分の数字を眺めて、わたくしは、少しだけ、いい気分になった。
いい気分のまま、夜、お祖母様の家政帳を、開いた。
お礼を、申し上げたかったのだ。
お詫びの手紙で詰む、の頁に。
窓の外で、風が、北の音を立てていた。
燭台の灯りを、頁の上に引き寄せて、めくる。
古い紙は、めくるたび、乾いた小さな音を立てる。お祖母様の部屋と、同じ音がする。
五十二頁目を探して、めくっていたときだった。
帳面の後ろの方、綴じの緩んだあたりから、はらり、と紙が落ちた。
古い紙だった。
四つ折りで、日に焼けて、折り目が、切れかかっている。
何十年も、同じ形に畳まれたまま、頁と頁の間で眠っていた紙の、軽さだった。
開くと、献立表だった。
『晩餐の儀 主菜 仔鹿の香草焼き 副菜 根菜の蒸し煮、川魚の冷製……』
几帳面な、お祖母様の字。
ただし、ところどころ、若い。撥ねが、今より強い。ずいぶん昔の字だ。
人の字は、年を取る。撥ねから先に、年を取る。
献立の上に、表書きがあった。
『ヴェッセル伯爵家 晩餐 御献立控』
——ヴェッセル?
わたくしは、灯りを近づけた。
見間違いではない。ヴェッセル、とある。
紙の隅に、小さく、紋の押し型。盾に、樫の枝。この屋敷の玄関で、毎日見ている紋だった。
心の臓が、一つ、余計に打った。
お祖母様は、リンデンの家にいらした方ではない。
お母様の生家で、長く行儀見習いの指南をなさって、晩年をうちで過ごされた。
その前のことを、わたくしは、よく知らない。
「お屋敷勤めをしていた」と、それだけ聞いていた。
どこの、と聞いたことが、一度だけある。お祖母様は、茶器を拭く手を止めずに、「北の方」とだけ、仰った。
北の方。
わたくしは、いま、その北の方に、いる。
献立表を裏に、返すと、鉛筆の書き付けがあった。
『奥様の好物。覚えること』
奥様。
三十年前のヴェッセル家の、奥様。
今の旦那様の——お祖母様にあたる方か、それとも、お母様にあたる方か。
わたくしは、献立表を、もう一度、表に返した。
仔鹿の香草焼き。
根菜の蒸し煮。
川魚の冷製。
誰かの好物を「覚えること」と書き付けるのは、お給仕をする側の人だ。
お客様では、ない。
それも、ただの下働きではない。献立の控えを自分の手で取り、主の好みを帳面に刻むのは、台所と奥の間に立つ人——侍女頭か、家政を預かる人の仕事だ。
偶然、ということは、ある。
お屋敷勤めの娘が、北部の伯爵家で働くことくらい、いくらでも、ある。
その孫娘が、三十年後に、同じ家へ嫁ぐことも——あるには、あるだろう。
けれど。
わたくしは、この縁談の話が来た日のことを、思い出していた。
誰も読まない財産目録を、最後まで読んで、「わたくしが、まいります」と言った日のこと。
あのとき、お父様が、妙なことを仰った。
『……アデーレ。お前が行くと言うなら、止めん。お祖母様も、きっと、そう言われた』
お祖母様も、きっと、そう言われた。
あれは、ただの、励ましの言葉だと思っていた。
励ましの言葉に、しては——お父様は、あのとき、わたくしの顔ではなく、わたくしの手の中の財産目録を、ご覧になっていた。
わたくしは、献立表を、丁寧に折り直して、家政帳の同じ場所に、戻した。
しおりの紐を、その頁に、移した。
わからないものは、急いで判断しない。
ただし、わからないものの場所には、しおりを挟んでおく。
しおりは、そのためにある。
『二十二日目。家政帳より、ヴェッセル家の献立表。お祖母様の字。「奥様の好物。覚えること」』
書き終えて、ペンを置いて、わたくしは、ひとりごとを言った。
「……お祖母様。あなた、この家を、ご存知でしたのね」
家政帳は、答えない。
帳簿とは、そういうものだ。
答えは、いつも、突き合わせて、自分で出す。
ならば、突き合わせる相手を、探すまでのこと。
三十年前のこの家を知る人は、この屋敷に、まだ、いらっしゃるかしら。
お読みいただき、ありがとうございます。
三十年前の献立表が、出てまいりました。
次話「西棟の、鍵」——お屋敷には、開かずの部屋があるそうです。
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