西棟の、鍵
家政を預かる者として、屋敷の図面と、鍵の台帳を、確かめることにした。
図面は、書庫にあった。
羊皮紙の大きな一枚で、隅に、先々代の頃の年号が入っていた。
本館、東翼、西棟、東の別邸。
先代の頃は、使用人が四十人いた屋敷だ。今は、十五人。閉めている部屋の方が、多い。
図面の上では、この屋敷は、まだ四十人の屋敷のままだった。紙は、家より、ゆっくり年を取る。
鍵の台帳と、鍵束とを、突き合わせる。
ドーラさんに立ち会っていただいて、一本ずつ、札を読み上げて、数えた。
鍵束は、重かった。使われない部屋の鍵ばかりが、よく磨かれた輪に、ぶら下がっている。
合わない鍵が、一本だけ、あった。
「西棟……先代様の、書斎でございます」
ドーラさんの声が、少しだけ、低くなった。
「台帳には、ございますね。鍵束には、ない」
「は、はい。その……紛失、ということになっておりまして」
「なっておりまして、というのは」
「いつ失くなったのか、誰も知らないのでございます。先代様が亡くなられたあと、お部屋を整理しようという話が出たときには、もう」
先代が亡くなられたのは、三年前。
屋敷の主が替わっても、仕入れの数字だけは、先代の頃のまま、走り続けている。
「錠前屋を呼べば、開きますでしょうに」
「それが……クラム様が、先代様のお部屋に職人を入れるなど忍びない、と。旦那様も、急ぐ部屋ではない、と仰って、それきりに」
忍びない。
急がない。
誰も嘘をついていないのに、三年間、扉が一枚、閉まり続けている。
嘘のない言葉だけを積んで、人を動かさずにおく——どこかで、見た手口だ。三枚重ねの、布団の手口。
午後、西棟へ、行ってみた。
渡り廊下を一つ越えると、空気が、変わった。
西棟は、冷たかった。
使っていない棟の、独特の、止まった匂い。埃と、冷えた石と、日の射さない木の匂い。
窓の鎧戸が半分下りていて、廊下に、縞模様の薄い光が落ちている。
わたくしの靴音だけが、高く響いた。
廊下の突き当たりに、その扉は、あった。
樫の、重い扉。
彫りは簡素で、把手は真鍮。
把手に、薄く埃。
鍵穴のまわりだけ、埃が、少ない——ような気がしたけれど、断定できるほどでは、なかった。
わたくしは、屈んで、扉の下の隙間を見た。中は、暗い。風の音だけが、扉の向こうで、低く鳴っていた。
把手には、触れずに、戻った。
触れた跡を、残したくなかったから。
埃は、帳面と同じだ。触った者の指を、覚えている。
戻る途中の廊下で、コルネリア様と、行き合った。
「……義姉様? どうして西棟に」
「屋敷の図面を確かめておりましたの。コルネリア様こそ」
「私は、その……近道よ」
使っていない棟は、近道には、ならない。
けれど、わたくしは、そうですか、と申し上げた。
コルネリア様は、わたくしの後ろの、突き当たりの扉を、ちらりと見た。
「……あの部屋、開かないわよ」
「のようですね」
「お父様が亡くなってから、誰も入ってないの。誰も」
その声は、意地悪の声では、なかった。
ただ、寂しい声だった。
「お父様ね、最後の晩、あの部屋にいたのよ」
「————」
「朝まで灯りが点いてた、って、門番のおじいが言ってたわ。倒れて見つかったのは、朝。机に、突っ伏して。……それきり、あの部屋は、おしまい」
机に、突っ伏して。
亡くなる晩まで、机に向かっていらした。
帳簿を見ないと言われた先代様が、最後の晩、何をお書きになっていたのだろう。
コルネリア様は、つん、と顎を上げて、歩いて行かれた。
近道、だそうだ。
十六歳の近道は、父親の部屋の前を、通るらしい。
わたくしは、その後ろ姿が角を曲がるまで、黙って、見送った。
夜、ミーナさんが、お茶を運びながら、声を低くした。
「奥様、西棟に行かれたんですって? ドーラさんから聞きました。……あたし、見ちゃったこと、あるんですけど」
「何を、かしら」
「先月の夜中、西棟の窓に、灯りが。一瞬ですけど。……でも、翌朝クラム様に言ったら、月の照り返しだろうって。鍵がないんだから、誰も入れないだろうって」
鍵がないんだから、誰も入れない。
それは、そうだ。
鍵が、本当に、失くなっていれば。
そして、もう一つ。
ミーナさんは、灯りを見て、よりにもよって、あの方に申し上げたのだ。
月の照り返し、というお返事を、誰よりも先に用意できる方に。
『二十五日目。西棟書斎。鍵、台帳にあり、束になし。三年。窓に灯りの噂』
帳簿の上では、この扉は、ただの「紛失」一行だ。
けれど、紛失した鍵というものは、不思議と、いちばん大事な扉のものばかり、失くなる。
お読みいただき、ありがとうございます。
失くなる鍵には、失くなる理由があるものでございます。
次話「管財人の、ご進言」——あちらも、動くようです。
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