第11話:管財人の、ご進言
その日、わたくしは、執務室にお茶を運ぶ途中だった。
半月前の晩から、なんとなく、続いている。
頼まれてはいない。お断りもされていない。
器が、毎回、空になって返ってくるだけだ。
空の器は、何も言わない。何も言わない器を、わたくしは、翌晩も、盆に載せる。家政とは、そういう地味な往復でできている。
執務室の扉が、少し、開いていた。
中から、声がした。ベルトルトさんの声だった。
わたくしは、廊下の手前で、足を止めた。
盗み聞きは、はしたない。
けれど、お話の最中に扉を叩くのも、無作法というものだ。
わたくしは、無作法を避けるために、そこに立っていた。そういうことに、した。
お盆が、少し、重くなった気がした。
「——奥様の、ご熱心は、結構なことでございます。ですが旦那様、商人どもの間で、妙な噂が立ち始めております。ヴェッセルの奥方は、嫁いで早々、家の帳簿を疑っておられる、と」
「…………」
「ベンケの一件、わたくしの監督不行き届きでございました。それは、いくえにもお詫びいたします。ですが、ああいったことが続きますと、お取引の先様が、当家を警戒いたします。借財のある家が、商人に警戒されては、立ち行きません。それに——」
声が、一段、低くなった。
「失礼ながら、奥様は、三年でお出になる方。お出になったあと、商人たちとの軋みだけが、家に残ります。どうか、奥様には、家政の細々には、お関わりにならぬよう、旦那様から、お言いつけくださいませ。これは、家を二十年お預かりした者の、老婆心でございます」
……なるほど。
搦め手で、参られた。
文句のつけようのない、ご進言だった。
嘘が、一つもない。噂も、警戒も、軋みも、きっと本当にある。
本当のことだけを積んで、わたくしの手から、帳簿を取り上げる。
しかも、悪者は、どこにもいない。奥様は熱心で、商人は心配性で、家令は忠義者で——それで、帳簿だけが、元の暗がりに帰る。
お上手なこと。
そして、これは、わたくしへのお返事でもあった。
一枚目の書面への、お返事。
あの方は、わたくしの手筋を、ひと月で読み切って、いちばん安い手で、潰しに来た。
妻を止めるのに、当主の一言ほど、安くて確かなものはない。
沈黙が、長かった。
お盆の上で、お茶が、冷めていく。
今夜のお茶は、冷めてしまったものを、お出しすることになるかもしれない。
冷めたお茶と、止められた仕事と。両方を抱えて立っている廊下は、思いのほか、寒かった。
それから、旦那様の声がした。
「クラム」
「はい」
「妻が嫁いできてから、月の食費は、どうなった」
「……は。それは……下がって、おります、が」
「使用人の食事は、減ったか」
「いえ……むしろ、台所はちかごろ、整って……」
「なら、いい」
書類をめくる音が、一枚。
「妻の好きにさせろ。この家は、契約の間、妻の職場だそうだ」
「————旦那様」
「噂が立つなら、立たせておけ。ヴェッセルの奥方は帳簿を読む、と広まって、困るのは、帳簿を読まれて困る者だけだ」
廊下の寒さが、どこかへ、いった。
扉の内側で、お辞儀の衣擦れの音がした。
ベルトルトさんが、出てくる。
わたくしは、三歩下がって、いま来たばかりの顔で、廊下を歩き直した。
「あら、クラムさん。ごきげんよう」
「……奥様。ごきげんよう。お茶でございますか。お熱いうちに、どうぞ」
すれ違うお辞儀の角度は、完璧だった。
完璧すぎて、今夜は、少しだけ、刃物に似ていた。
お熱いうちに、と仰った。わたくしの盆の上のお茶が、もう、ぬるいことを、あの方は知っている。廊下に立っていた長さごと、知っている。
知っていて、笑顔で仰るのだ。
よい敵だこと、と思ってしまったのは、家政係の悪い癖だ。
執務室に入って、お茶を、机の端に置いた。
「ぬるくなってしまいましたわ。淹れ直してまいります」
「いい。……このままで」
旦那様は、書類から目を上げずに、器を取った。
ぬるいお茶を、一口、飲んで、何も仰らなかった。
扉の外のことには、お互い、触れなかった。
触れない、という形の会話も、世の中には、ある。
わたくしは、お辞儀をして、廊下に出て、扉を閉めて。
それから、誰もいない廊下で、少しの間、立っていた。
——妻の職場だそうだ。
わたくしの言葉だ。わたくしが、申し上げた言葉。
あの方は、人の言葉を、覚えていて、それを盾の形にして、お使いになる。
半月前の、廊下の立ち話の言葉を。
……困った方。
期待しないでもらいたい、と仰ったくせに。
これでは、期待して、しまいそうになる。
『二十八日目。ご進言、一件。却下、一件。お茶、ぬるいまま一杯』
帳簿は、正直に。
正直に付けると決めているのが、今夜は、少しだけ、恨めしかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
借りた言葉を盾になさる旦那様でした。
次話「三年の、初めの月」——第一章、締めの一話でございます。
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