三年の、初めの月
嫁いで、ひと月が、経った。
月末の朝、わたくしは、ひと月分の家計を、一枚の書面にまとめた。
月次の締めは、夜にしない。これも、お祖母様の教えだ。
夜の数字は、感傷で太る。朝の数字は、嘘をつく元気がない。
窓から、北の朝の白い光が、机の上に、まっすぐ落ちていた。
食費、先月比、二割減。
うち、注文書の改めによる分が、ほとんど。
台所の働きが落ちたわけでも、食卓が貧しくなったわけでもないことを、献立の控えで、添える。
数字の隣に、暮らしの証拠を置く。数字だけの報告は、読む人を、不安にさせるから。
差引で浮いた分の、使い道の提案を、三つ。
一つ、使用人の冬着の繕い。
一つ、屋根の雨漏りの、東側だけの修繕。
一つ、残りは、返済へ。
冬着を最初に書いたのには、理由がある。
北部の冬は、もう、廊下の窓のすぐ外まで来ている。それに、検めだの数えだのに付き合わされたひと月の屋敷の皆さんに、紙の上で、お礼が言いたかった。
署名をして、執務室へ、持って行った。
「月次のご報告に、参りました」
旦那様は、書面を受け取って、黙って、読み始めた。
わたくしは、立ったまま、待った。
読み終わるまで、長かった。
一枚の紙を、あの方は、三度、読み返した。
一度目は、ざっと。二度目は、行を指で追って。三度目は——たぶん、書いた人間の手筋を、読んでいた。
帳簿読みの読み方だった。
「……これを、毎月、出すつもりか」
「家政の締めは、月に一度と、祖母に習いましたので」
「誰に頼まれた」
「どなたにも。——お嫌でしたら、おやめいたしますが、お嫌でない場合に備えて、来月の分も、もう書き始めております」
旦那様は、書面から目を上げて、わたくしを見た。
それから、机の引き出しを開けて、書面を、そこへ、しまった。
ごみ箱では、なかった。
引き出しの、いちばん上だった。
鍵の付いた引き出しの、いちばん上。返済の書類と、同じ場所。
「……冬着と、雨漏りは、やってくれ。残りの扱いも、これでいい」
「かしこまりました」
「以上か」
「以上でございます。——いえ」
わたくしは、一度、言葉を切った。
言うべきか、ひと月、迷っていたことが、一つだけ、あった。
数字の裏付けは、まだ、半分しかない。半分で物を言うのは、帳簿付けの作法に反する。
けれど、この方は、ひと月、わたくしの「散歩」を、黙って通してくださった。
通していただいた分のお返しは、半分でも、お渡しするべきだと思った。
「旦那様。ひと月、家政を預かりまして、一つだけ、わかったことがございます」
「……聞こう」
「この家は、傾いてなど、おりませんわ」
旦那様の眉が、わずかに、動いた。
「領地は手堅く、使用人は働き者で、台所は清潔です。傾いた家というのは、もっと、だらしのない数字をしておりますの。この家の数字は——傾いているのではなくて、どこかへ、流れております。傾きと流れは、別のものです。流れは、堰き止められます」
「————」
「ですから、三年で、立て直ります。それだけ、申し上げたく」
旦那様は、長いこと、黙っていらした。
疲れた目が、わたくしを見て、それから、机の引き出しに、落ちた。
何年も、毎晩、お一人で読んでこられたのだろう数字を、「流れている」と言い当てられた方の沈黙だった。
長い沈黙のあと、旦那様は、短く、仰った。
「……来月の報告も、待っている」
待っている。
好きにしろ、ではなく。
わたくしは、お辞儀の角度を、いつもより、一度だけ深くした。
角度の貸し借りなら、あの管財人どのに、負けないつもりだ。
部屋に戻って、お祖母様の家政帳を、開いた。
ひと月分の書き付けを、ぱらぱらと、読み返す。
燭台。卵。写しの筆跡。紙の上の馬車。一枚目の書面。献立表。西棟の鍵。
ひと月で、ずいぶん、頁が進んだ。
悪くない、ひと月だった。
帳面を閉じようとして——ふと、最後の頁を、開いた。
いままで、開いたことのない頁だった。帳面の最後など、白いに決まっているから。
白く、なかった。
鉛筆の、薄い字。
日に焼けて、消えかかった、お祖母様の字が、三行。
『ヴェッセルの家を、お願い。
あの方との約束を、わたしの代で、終わらせないで。
帳簿は、嘘をつきません。最後の一枚まで、お読みなさい』
わたくしは、長いこと、その頁を、見ていた。
あの方。
約束。
最後の、一枚。
……お祖母様。
あなたは、わたくしが、この帳面を持って、この家に来ることを。
いつ、お書きになったのだろう。
鉛筆の字は、ペンの字より、先に消える。消える字で書かれた言葉は、たぶん、宛名のある言葉だ。
この帳面を、いつか最後の頁まで読む誰かへの。
帳面を、最後の頁まで読む人間を、お祖母様は、一人しか、育てていない。
窓の外で、夜の風が、鳴った。
三年の契約の、初めの月が、終わる。
わたくしは、ペンを取って、今日の行を、書いた。
『三十日目。月次、受領。「待っている」と。最後の頁に、お祖母様より、宿題』
契約は、三年。
宿題の期限も、きっと、同じだ。
お読みいただき、ありがとうございます。
これにて第一章、おしまいでございます。お祖母様の宿題と共に、第二章へ続きます。
次話「使用人名簿の、空欄」——お屋敷には、顔のない使用人が、三人いるそうです。
ブックマークと評価で、続きを応援いただけますと、大変励みになります。




