一枚目の、書面
食料品の納入は、ベンケ商店。
町で二代続く、手堅いお店だそうだ。手堅いお店が、紙の上の馬車を、走らせている。
手堅い店が自分から悪事を始めることは、めったにない。手堅い店は、断れなくて、巻き込まれる。
だとすれば、責めるのは、筋が違う。
わたくしは、机に向かって、便箋を一枚、出した。
上等すぎない、家の用向きの便箋。封筒は、屋敷の紋入り。
紙の格は、文面の声の大きさだ。今日は、小さな声でいい。
書き出しは、季節のご挨拶。
お屋敷への長年のご奉公への、お礼。
それから、本題を、三行。
『このたび家政を預かるにあたり、納入のお品を婚姻契約添付の財産目録と突き合わせましたところ、当月の納品記録と、当家裏門の荷受けの記録との間に、わずかな相違がございました。つきましては、貴店お控えの納品書の写しを頂戴し、当家の記録の過誤を正したく存じます。当家の帳簿の不始末でお手を煩わせますこと、なにとぞご容赦くださいませ』
——当家の、過誤。
あなたを疑ってはいない、という形。
うちの帳簿が間違っているといけないから、お宅の正しい控えを見せてください、という形。
正しい控えなど、出せるはずがないのだ。
控えを出せば、水増しが写る。
出さなければ、二代続いた店が、帳簿の照合を断ったことになる。
町の店にとって、お屋敷との取引は、看板の半分だ。看板に「照合を断った店」と書かれて、商いは続かない。
お祖母様の家政帳、五十二頁目。
『責める手紙は、書いてはなりません。お詫びの手紙で、詰むのでございます』
書き終えて、読み返して、一箇所だけ、直した。
「相違がございました」の前に、「わずかな」を、足した。
わずか、と書かれた相違ほど、受け取った側の頭の中で、大きく育つものはない。
封をして、ミーナさんに頼んだ。
「お返事は、お急ぎでなくて結構です、と添えてくださいな」
お急ぎでなくて結構、と言われた手紙ほど、人を急がせるものはない。
ベンケ商店のご主人は、翌日の昼に、いらした。
応接の間に通すと、ご主人は、丸い体を縮めて、汗を拭き拭き、何度も頭を下げた。
悪人の汗ではなかった。困っている人の汗だった。
「このたびは、その、手前どもの不行き届きで……いえ、お屋敷のお帳簿のことで、ご面倒を……」
「まあ。わざわざ、ご足労いただかなくとも、よろしかったのに」
「いえ! いえ、その、手紙では何かと……それで、あの、奥様。相違と仰いますのは、その、どのあたりで」
わたくしは、書き付けを、卓の上に置いた。
火の日。金の日。荷馬車の数。樽と木箱の数。刻限。
四週間ぶん。
数字だけの紙だ。咎める言葉は、一つも書いていない。
咎める言葉のない数字ほど、こわいものはない、ということを、わたくしは帳簿付けの十年で、よく知っている。
ご主人の汗が、拭いても拭いても、追いつかなくなった。
「手前どもは、その……注文書のとおりに、納めておるだけでして……」
「ええ、ええ。そうでしょうとも。ですから、当家の過誤ですの。注文の数が、台所の入用より、多く書かれていたようで」
注文書のとおり。
その注文書を、誰が書いていたのか。
ご主人は、言わない。わたくしも、聞かない。
ここで名前を出させれば、ご主人は帰り道で青くなり、出された名前の方は、今夜のうちに手を打つ。
まだ、その段ではない。
わたくしは、にこやかに、続けた。
「来週から、注文書を、わたくしの署名のあるものに改めます。数は、台所と相談して、入用のとおりに。——それから、これまでの分は」
「は、はい……っ」
「過去のことは、過誤として、互いに正すだけですわ。つきましては、この一筆に、お署名をいただけます?」
差し出したのは、短い書面だった。
『当店の納品数と屋敷の受領数に相違のあった期間につき、今後は受領数をもって請求の基とすることに同意いたします』
誰も、罪人にしない文面。
ただし、署名すれば、紙の上の馬車は、今日で停まる。
そして「相違のあった期間」が存在したことが、商店側の署名で、残る。
いつか、誰かの前に並べる日のための、一枚目。
ご主人は、書面を三度読み、観念したように、署名なさった。
ペンを置いてから、ご主人は、初めて、まっすぐにわたくしを見た。
「……奥様は、その。お若いのに、恐ろしい字をお書きになる」
「あら。褒め言葉として、いただいておきますわ」
帰り際のご主人の足取りは、来たときより、軽かった。
長く担いでいた荷を、半分、降ろした人の足取りだった。
巻き込まれた側は、いつでも、降りる口実を探しているものなのだ。
夕刻、署名済みの書面の写しを、管財人の事務室へ届けた。
帳簿のことは、すべてお耳に入れておくのが、筋というものだから。
筋を通しておけば、あちらは「知らなかった」と言えなくなる。筋とは、そういう使い方をするものでもある。
「来週から、食料品の注文書は、わたくしの署名で出します。お手数が一つ減りますわね、クラムさん」
「…………それは、それは」
ベルトルトさんは、書面を、受け取った。
文面を、目で追っていく。
その指が、「相違のあった期間」のところで、一瞬だけ、止まった。
止まった指は、すぐに、何事もなく動き出した。
お辞儀の角度は、今日も、完璧だった。
「奥様の、行き届いたお仕事ぶり。……先代様にも、お見せしとうございました」
「まあ。嬉しいこと」
扉が閉まる。
廊下を歩きながら、わたくしは、胸の内で、そろばんを一つ、弾いた。
一枚目、終わり。
残りの嘘は、あと、何枚かしら。
お読みいただき、ありがとうございます。
お詫びの手紙で詰む、がお祖母様の教えでございます。
次話「お祖母様の、しおり」——その家政帳から、思いがけないものが出てまいります。
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