第71話:扉の、向こう
封を切るところから、目録は始まった。
「封紙、一。無傷。日付、署名とも、貼付の日のまま」
わたくしが読み上げ、コルネリア様が書く。ヒルシュ様とフックス様が卓の脇に立たれる。旦那様が家政帳の連名の行に、鍵の持ち出しを記される。手順は昨日までに十度さらってある。それでも、封紙に鋏を入れる指は、思ったより重い。
鍵が、錠に入った。
ミーナの油のおかげか、錠は拍子抜けするほど素直に回った。二十年ものの音ではなかった。ただ、重い扉の蝶番だけが低く、長く鳴いた。
扉が、開いた。
閉じた空気がゆっくりと廊下へ出てきた。埃と、古い紙と、乾いた革の匂いである。黴の匂いは思ったより薄かった。北向きの、乾いた部屋である。
誰もすぐには入らなかった。敷居の外から、わたくしは朝の光の届く範囲を目で検めた。
机が一つ。椅子が一つ。壁の三方に棚。ランプ。インク壺。窓の掛け布は閉じたまま。すべての上に、灰色の埃が均等に積もっている。
そして床に、足跡があった。
埃の下にうっすらと。机の前から扉へ向かう跡である。行きの跡はない。出る向きの跡だけ。二十年前、最後にこの部屋を出た方の足が、そのまま残っている。
「……足跡、一筋。机より扉へ。出る向きのみ。行きの跡、なし」
わたくしは声が揺れないように読み上げた。コルネリア様の筆が少しだけ遅れて、追いついた。振り向かなかったのだ、とわたくしは思った。この足跡の主は、机に何かを置いて、置いたものを振り返らずに、部屋を出ている。
品目の読み上げは、半日かかった。
棚の綴じ、六十と四冊。地代の控え、修繕の綴じ、古い書簡の束。年を追って順に揃っている。几帳面な、几帳面な棚だった。読み上げの声だけが響く部屋で、フックス様が時折、小さくうなずかれた。この棚の並べ方を作ったのは、二十年より前の管財——この方ご自身である。
机の上に、文箱が一つ。
「文箱、一。蓋に埃。錠、なし」
旦那様が御覧になった。うなずかれた。わたくしは蓋を開けた。
中には紙の束が、紙縒りで綴じられて、立てて納めてあった。数えると、束は十七あった。
一番手前の束を卓に出して、開いた。大きく、少し傾いだ字が並んでいた。分家との卓の日の帰り際、旦那様がわたくしに渡された、あの一枚と同じ手である。
『凶作の冬。森下、三村。併せて八十と二家。納め済み』
『川向こう、二村。四十と六家。納め済み。……ヨルンの家、快癒の由。祝着』
村の名。家の数。納め済み、の一行。ところどころに、祝着、だの、女児誕生、だの、勘定と関わりのない言葉が混じっている。帳面の字ではなかった。誰かの暮らしを覚えておくための字だった。
十七の束。二十年前の凶作の年から、先代様が床に就かれる前の年まで。一年も欠けていない。
誰も、何も言わなかった。フックス様が一度だけ、眼鏡を外された。
束のいちばん下に、それはあった。
一枚だけ、上等な紙である。折り目が深い。判が二つ。飾り文字の「H」と、ヴェッセルの紋と。
「……これは、わたくしの店の証文でございますな」
ヒルシュ様が老眼鏡を掛け直された。持参された店の古い帳面が、卓に開かれる。
「二十年前の、冬。大口の貸し。……へえ、間違いございません。この貸しは、わたくしがこの手で帳面に書き入れました。お使いは、そこのフックス殿。……使途は伺いませなんだ。金貸しは、使途を問わぬのが礼儀でございますでな」
最初の一枚。この家の借りがどこから始まったか。それがいま、貸し手の帳面と突き合わさって、卓の上にある。
わたくしは証文の額を読んだ。それから、文書庫から持って上がった凶作の年の表帳簿の、借りの行を読んだ。
——合わなかった。
一箇所だけである。ほかの何もかもが合ったのに、額だけがわずかに食い違う。証文より、帳簿の借りの方が太い。
わたくしはその食い違いを、頁の隅に書き留めた。書き留めただけにした。今日の仕事ではない。今日の卓に呼んでいない名前が、その食い違いの向こうに立っている気がしたからである。
旦那様は、十七の束の前に長く立っておられた。
わたくしは、預かっていたあの一枚をお返しした。折り目の深い、端の擦り切れた一枚である。旦那様はそれを、開いて読み直すことはなさらなかった。束の間に、静かに戻された。
「目録に、足しておいてくれ」
「はい」
「……覚え書き、十七束。ならびに、離れていた一枚」
コルネリア様が書かれた。書きながらこの方は、袖口で目のあたりを一度だけ拭われた。目録には、心持ちの言葉は書かない。書かない分は、書く人の袖に残る。
読み上げと写し取りがすべて済んだのは、夕刻だった。原本は文箱ごと、封のできる櫃に納め、連名の鍵と同じ扱いにした。証は揃った。あとは、それを誰の言葉で語るかである。
部屋を出るとき、旦那様が足を止められた。埃の中の、あの足跡の脇である。踏まないように、跨がないように、その方は少しだけ遠回りをして、敷居を出られた。
廊下で、その方はおっしゃった。
「……夜に、話す。全部だ」
目録に心持ちの言葉は書かない、という型の話を、六十五話でいたしました。書かなかった分がどこへ行くかを、今日、書記の方の袖が教えてくれました。
十七の束に、祝着、女児誕生。勘定に要らない言葉が混じるのは、それが勘定ではなかったからでございましょう。
次回、第72話「先代の、使途不明金」。第六章、締めでございます。夜に、全部、話していただきます。
二十年ぶんの頁をご一緒にめくってくださった方へ。ブックマークが、何よりの立会印でございます。




