第72話:先代の、使途不明金
翌る日、わたくしは朝から算盤を置いた。
卓の右に、写し取った覚え書き、十七束分。左に、文書庫の古い表帳簿、二十年分。仕事は単純である。右の、納め済みの総和を出す。左の、借りの行の総和から、使い道の立っている分を引く。残った数字を突き合わせる。
単純な仕事ほど、長い。指が算盤の上で日を跨ぎそうになった。コルネリア様が途中から読み上げを代わってくださった。フックス様は頼まれもしないのに検算の側に座られた。ヒルシュ様は暇乞いの日延べを、ご自分からおっしゃった。「勘定の途中で席を立つ金貸しは、おりませんのでな」
夕刻、二つの数字が出た。
わたくしは右の紙と左の紙を並べた。二度、検算した。フックス様が、もう一度なさった。それから、皆の前で読み上げた。
合っていた。
二十年、使途不明と呼ばれてきた金の総和と、十七の束の納め済みの総和が、端の端まで合っていた。
不明、というのは、無いことではない。書かなかった、ということである。そして、書かなかったものを書き残していた人がいた。それだけのことだった。それだけのことが、卓の上で二十年ぶりに、一つの数字になった。
誰も、拍手などしなかった。この家の勝ち鬨は、いつも静かである。フックス様が手控えの革に手を置いたまま、長いこと俯いておられた。書かぬ金は守れませぬと言って家を出た方の前で、書かれなかった金が、いま、守られて出てきたのである。あの方の二十年も、帳尻が合った。
夜、執務室で茶を淹れた。
旦那様は卓の向こうにおられた。書類はない。書類のないこの卓を、わたくしは初めて見た。
「父のことを、話す」
旦那様はそう始められた。
「知ったのは、死の三日前だ。父はもう、長く喋れなかった。……一度だけ、言った。帳簿に、書かなかったものがある。西棟だ。誰にも言うな。……それきりだ。すまん、とも言わなかった。枕の下に、一枚だけ残っていた。あなたに渡した、あれだ」
茶の湯気が、まっすぐに立っていた。
「葬式が済んで、帳簿を見た。借りの山だった。使い道のない借りが二十年分。……世間の言うとおりだと、思うしかなかった。放蕩の父。傾いた家。証は何もない。西棟を開ける気にもなれなかった。開けて、世間の言うとおりのものが出てきたら……父の最後の言葉まで、ただの言い逃れになる」
「それで、開けずに」
「返した。三年。……父の借りなら、父の名ごと私が背負って返せば済む。誰にも期待せず、誰にも触らせず、数字だけ見ていれば、三年で私の代の分は目処が立つはずだった」
旦那様はそこで、茶を一口飲まれた。
「母のことは、聞いたな」
「はい。グレーテから」
「母は、期待した人だ。社交の場に期待して出て、削られて戻ってきた。それでも次も、期待して出た。……最後は、期待だけが母を削った。前の婚約の話も、聞いたか」
「ヒルシュ様のお手紙で」
「あれも同じだ。私が、期待をさせた。家の数字を先に見せなかった。……期待は、する側も、される側も削る。だから、あなたには最初に、何も期待しないと言った。……あれは」
旦那様は、少しだけ間を置かれた。
「あなたを削らないための、精一杯の作法のつもりだった」
わたくしは何も申し上げなかった。契約の三条を思い出していた。持参金は要らない。三年で離縁できる。互いに干渉しない。冷たい書面だと、実家の皆は言った。けれどあの三条は、この方の知る限りで、いちばん人を削らない形をしていたのである。
「アデーレ」
名を呼ばれた。
「あなたは、最初の日から数字しか見なかった。私にも、この家にも期待をせずに、帳面だけをまっすぐに読んだ。……救われたのがどちらだったかは、今日の検算で出たとおりだ」
抑揚のない、いつもの声だった。いつもの声のまま、この方は二十年分を話し終えられた。
わたくしは頭を下げる代わりに、新しい茶を注いだ。旦那様はそれも飲み干された。この方の茶碗が空になるのを見るのは、何度目だろう。数えてこなかったことを、少しだけ悔やんだ。
「これを、表になさいますか」
わたくしは最後に伺った。十七の束を世間に開けば、汚名は雪がれる。代わりに、父君の隠した施しが、施しの名で村々の背に乗る。
「……わからん」
旦那様は正直におっしゃった。
「父は、出すなと言うだろう。だが、父の名は、それでは戻らん」
「では、急がずに参りましょう。わからないものは、急いで判断しない。……祖母の家政帳の、教えでございます」
旦那様は短く息を吐かれた。笑われたのだと気づくのに、少しかかった。
寝る前に、家政帳を開いた。
玄関の燭台は、十八座のままである。偽の署名を書いた手は、まだ名を持たない。三冊目の帳簿は、出ていない。ドルンの口は開いたまま、指だけが替わっている。七日の木箱は、道を変えて動いている。お祖母様がなぜこの家を去られたのかも、まだ、誰も話してくださらない。……合っていない数字は、まだある。燭台は、まだ増やさない。
けれど今日、いちばん大きな「不明」が消えた。
『二百四十日目。先代様の使途不明金、宛先判明。覚え書き十七束と突き合わせ、一致。……契約の残り、二年と四月』
わたくしはそこで一度、筆を置いた。それから、もう一行足した。
『お祖母様。この家の借りは、恥ではございませんでした。まっすぐな借りでございました。まっすぐなものは、まっすぐに返せます。——ここから先は、返す話と、取り返す話でございます』
これにて第六章「先代の、使途不明金」、締めでございます。あわせて、第二部「家の外」も、ここで一区切りでございます。
凶作の年にひとつの借りがあり、十七年の覚え書きがあり、二十年目に検算が合いました。不明と呼ばれていたものは、書かれなかっただけで、無かったわけではございません。書き残す人と、読みに来る人が、二十年かけて一つの卓に揃っただけでございます。
燭台は、十八座のままでございます。名を持たない撥ねがひとつ、閉じない口がひとつ、出てこない帳面が一冊。——帳面の残りの頁は、返す話と、取り返す話に使うことになります。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。ブックマークと評価は、この家の帳面の、いちばん明るい行でございます。




