第70話:封の、夜
お日取りの前日は、静かに暮れた。
支度は、もう増やすものがなかった。廊下の卓、目録の帳面、新しい蝋燭、水差し、砂箱。コルネリア様はご自分の筆を三本、削って揃えられた。ミーナは鍵穴の油を、最後にもう一度検めた。開けずに。
お客様がたは、それぞれの部屋で静かに過ごしておられた。ヒルシュ様は昼餉の席で一度だけ、明日は蝋燭を何本お使いかな、と冗談めかして数の話をなさった。フックス様は書き物の卓で、ご自分の手控えに紙片の目印を挟んでおられたという。ミーナの報せである。皆が、それぞれの持ち場の形で、明日の支度をしていた。
あの灯りの夜から、わたくしには日課が一つ増えていた。寝る前に窓から西棟の廊下を見る。十日あまり、廊下は暗いままだった。暗いままであることを確かめてから、掛け布を閉める。それだけの日課である。
その夜も、廊下は暗かった。わたくしは掛け布を閉めた。
叩く音で、目が覚めた。
扉の外にミーナが立っていた。肩掛けを羽織って、蝋燭を持って、裸足に上履きをつっかけて。
「奥様。あたし、見ちゃったんですけど」
声が低かった。この娘のこんなに低い声を、わたくしは初めて聞いた。
「洗濯場に、忘れ物して。取りに下りたんです。そしたら、渡りの窓から……西棟に、灯りが」
「いつのことです」
「いま、です。いま見て、走ってきました」
わたくしは肩掛けを取って、窓に寄った。掛け布を、指の幅だけ開けた。
西棟の廊下に、灯りがあった。
扉の前である。動かない。提げた灯りの高さで、じっと止まっている。人の形は闇に溶けて見えない。灯りだけが、封の紙のあたりを下から照らしていた。
「奥様、誰か呼びますか。ヴィムさんとか、旦那様とか」
「いいえ」
わたくしは掛け布をそっと戻した。
「呼んで、駆けつけて、それで何が手に入りますか。……夜の廊下に立っていた、というだけのことは、罪ではございません。見回りだったと言われれば、それまでです」
「でも」
「ミーナ。あなたが見たことを、明日の朝、そのまま話してくださいまし。刻限と、場所と、灯りの高さ。見えなかったものは、見えなかったと。……それが、いちばん強うございます」
ミーナは唇を結んで、うなずいた。うなずいてから、わたくしの隣を離れなかった。わたくしも、離れなさいとは申し上げなかった。
わたくしたちは、灯りの消えるまで窓の際に立っていた。長かった。茶が一杯冷めるほどの間、灯りは扉の前にあった。
何を、しているのか。破るなら一息である。破らないなら、そこに用はない。
やがて灯りは、ふ、と消えた。吹き消した消え方だった。廊下は元の、ただの闇に戻った。
ミーナを部屋へ帰し、わたくしは寝台に戻って、思った。あの灯りは、迷っていたのではない。読んでいたのだ。封の紙に書いた、日付と、二つの署名を。破ればどうなるかを、あの紙は声を出さずに言い続けている。破れば、残る。開ければ、知られる。……あの方の二十年は、残さないことと、知られないことでできている。
紙一枚が、錠より強い夜だった。
朝は、晴れた。
わたくしは誰より先に、西棟の廊下へ下りた。
封は、無事だった。紙は貼った日の白さのまま、扉と枠に渡っている。日付も、二つの署名も、糊の照りも、そのままである。
ただ、扉の前の床に、蝋の滴が一つ落ちていた。
小さな、白い、丸い滴である。昨日の掃除のあとにはなかったものである。誰かがここに、灯りを提げて長く立った。灯りは傾いて、一滴だけこぼした。
わたくしはそれを拾わなかった。コルネリア様をお呼びして、目録の帳面の最初の頁に書いていただいた。
『開扉の朝。封、無傷。扉前の床に、蝋の滴、一。昨夕の掃除後に生じたるもの』
書き終える頃、皆が揃った。ヒルシュ様。フックス様。旦那様。ミーナは夜の話を、刻限からそのまま話した。灯りの高さと、消え方まで。見えなかったものは、見えなかったと言った。誰も、名前を口にしなかった。ヒルシュ様だけが、蝋の滴を長いこと眺めて、それから何も言わずに、一つうなずかれた。
朝の事務室のクラムさんは、いつもどおりだった。月次の綴じの進み具合を、いつもどおりの声で申し上げて、いつもどおりの完璧なお辞儀をなさった。
わたくしも、いつもどおりにお受けした。廊下へ戻ると、朝の光の中で、封の署名は昨日のままだった。
——開ける。
破るなら一息、破らないなら用はない。それでも灯りは、茶が一杯冷めるあいだ、紙の前に立っておりました。紙に書いてあったのは、日付と署名だけでございます。つまり、「破れば、残る」ということだけ。
夜の目撃は、そのまま話すのがいちばん強い、とミーナに申しました。見えなかったものを見えなかったと言える人は、見たものの値打ちを落としませんので。
次回、第71話「扉の、向こう」。二十年ぶりに、開きます。
開扉の朝でございます。ブックマークの上で、お立ち会いください。




