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三年で離縁の契約ですが、まずこの家の帳簿を直させていただきます 〜お飾り妻の、静かな家政立て直し〜  作者: 銀月ソフィ


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第69話:名の立たない、出口

 翌る日の午前、卓は事務室に移された。


 クラムさんは同席していない。月次の綴じの仕事をお願いしてある。体のよい遠ざけであることは、あの方にもわかっておいでだろう。わかった上で、完璧なお辞儀ひとつで退がられた。あの方の退がり方には、いつも音がない。


 卓の上には、二十年前の取極めの写し。フックス様の手控え。それから、わたくしの伺い書きである。伺うことは前の晩に書き出して、順に番号を振ってある。証言をいただく席で、思いつきの問いを足すものではない。


「フックス様。王都の御用のことを伺います。二十年前の冬、先代様のお使いで、ひと月と四日。……御用は、借り入れの整えでございましたか」


「へえ。それが、一つ」


 フックス様はうなずかれた。


「もう一つ、ございました。……口を、作ることで」


「口」


「金の通り道でございます。ヒルシュ様の店から出た金が、ヴェッセルの名を通らずに村々へ流れる道。両替屋に、名の立たぬ口座を一つ。……先代様の御指図でございました。使い道は仰せられませなんだ。手前も伺いませなんだ。管財は、指図の理由を訊かぬものでございますので」


「その両替屋が」


「ドルンで、ございます」


 卓の上の言葉が、一つ埋まった。第三の口座。湖の口。冬のはじめから、わたくしが追い続けてきた、あの口である。あれを掘ったのはこの方の手だった。そして、掘らせたのは先代様だった。


「戻って、締めにかかって、初めて使い道を知りました。村々の、人頭の税でございます。……あの口は、施しの名を立てずに施すための口でございました。手前が縁を切ったあと、あの口がどうなったか。手前は長いこと、知らずにおりました」


 フックス様はそこで、手控えの革を指で押さえられた。


「知りましたのは、近年でございます。手前の店は、ドルンの二軒先で。……帳場の出入りを、見るともなしに見まする。あの口は、いまも動いております。二十年前と同じ口が。……口は、そのまま。指だけが、替わりましてございます」


「替わった指の、名は」


「存じませぬ。ただ」


 その方は、少しだけ間を置かれた。


「近ごろ、あの帳場に、若い写字の手が入りました。行の揃った、素直な手でございます。……どこかで見たような字だと、思うたことはございます。写字屋の目移りかも、しれませぬが」


 わたくしはそれを帳面の隅に書き留めた。名のない字の話が、この件ではいちばん、あとを引く。



 午後、わたくしはもう一枚の写しをお出しした。取極めの、立会人の欄である。


 フックス様は長く見ておられた。ご自分の名を。ご自分の書いたことのない、ご自分の名を。見ているあいだ、この方の指が一度だけ、卓の上で小さくペンの形に動いた。書き手が字を検めるときの、無意識の手つきである。


「……よく、書けておりまする」


 声は平らなままだった。


「名の形は、手前の若い頃の字に寄せてございます。ですが、これは写字の手ではございません。写字は、人の字を写すのが仕事。写すときは、元の手の癖ごと写しまする。これは、癖を写しておりませぬ。……自分の癖を、隠しておりまする。手癖を、隠しなれた字でございます」


「隠しなれた」


「へえ。一度きりの悪戯では、こうは書けませぬ。日頃から字を使い分けておる手でございます。……それと奥様、もう一つ。これを書いた手は、手前の字を、若い頃の字で知っております。二十年前に、手前の若い頃の字を見られた場所は、そう多くございませぬ」


 わたくしはうなずいた。名は出さなかった。フックス様も出されなかった。卓の上に、出せる証がまだないからである。証のない名は、口にした瞬間から、こちらの帳尻を狂わせる。


 ヒルシュ様が、茶碗の底で静かにおっしゃった。


「名を出さぬまま、ここまで詰める卓は、王都でもそう見られませぬな。……道を指した甲斐が、ございました」



 夕刻、お日取りが決まった。


 明後日の、朝。立会人、ヒルシュ様とフックス様。書記、コルネリア様。読み上げ、わたくし。鍵は、当主。ヴィムさんには当日の門を、いつもより固く。


 揃った。立会人と、目録と、お日取り。開かずの間の作法として書き留めた三つが、嫁いで初めての春に、全部揃った。


 夜、廊下で旦那様がおっしゃった。


「明後日だ」


「はい」


「……約束どおりに。隣に、いてもらう」


 抑揚のない、いつもの声だった。わたくしは、はい、とだけお答えした。それ以上の言葉は、明後日の朝まで取っておくことにした。

 善いことのために作られた道具ほど、悪いことに使われたとき、長持ちいたします。作りが丁寧でございますので。名の立たない出口は、名を出せない施しのための道具でございました。二十年後も、同じ口が動いております。


 「手癖を、隠しなれた字」。写字のプロの見立てでございます。名前はまだ、卓に出せません。証が揃っておりませんので。


 次回、第70話「封の、夜」。開ける日の、前の晩の話でございます。


 前夜の緊張を、ご一緒に。ブックマークをお忘れなく。

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