第67話:扉の、封
フックス様の返事は、春の便で届いた。
例によって、美しい紙に美しい字で、短かった。
『参りまする。
道々、店を閉める算段をいたしますゆえ、ヒルシュ様の御一行と同じ馬車にて。……二十年ぶりの北の道は、手前の覚えより遠いか近いか、確かめてまいります』
二十年ぶりの北の道。その一言に、この方の二十年が折り畳んであった。わたくしは返事を旦那様にお見せしてから、客間の支度をドーラさんに頼んだ。二間。東の客間と、その隣である。寝具を新しくし、書き物の卓を入れる。写字を生業とする方の部屋に、卓のない部屋はお出しできない。
ミーナが廊下で、指を折って数えていた。
「王都から五日でしょ、支度に何日かかるかわかんないでしょ、それで……奥様、いつ着くんですか」
「わかりません。わからない日を数えるものではありません。着く日は、門のヴィムさんが、いちばんに知らせてくださいます」
その翌日だった。クラムさんが事務室で、静かに切り出された。
「奥様。西棟のことで、一つ、お伺いを」
「はい」
「御老人方をお迎えになる由。されば、あの部屋、二十年、風を入れておりませぬ。埃も、黴もございましょう。紙の傷みも案じられまする。……お開けになる前に一度、虫干しと御掃除を、お許しいただけませぬか」
理路は通っていた。この方の申し出はいつも理路が通っている。お客を迎える家が、部屋を清めておく。それだけを聞けば、家政の作法として正しい。しかも、案じておられるのは紙の傷みである。わたくしがいちばん困る種類の案じ方を、選んで持ってこられる。
わたくしは、少しだけ間を置いた。急いで断ると、断り方に心持ちが出る。
「御懸念、ごもっともでございます」
「では」
「ですが、お掃除は、開いた後にいたします」
クラムさんの手が、書類の上で止まった。
「あの部屋は、二十年、誰も入っていない部屋として開けます。埃が二十年ぶん積もっていることも、黴が生えていることも、蜘蛛の巣が張っていることも、全部、二十年ぶんの在り姿でございます。目録にはそれも書きます。……先にお掃除をいたしましたら、その証が消えてしまいます」
「埃が、証、でございますか」
「はい。埃は、入った者の跡を残しますので」
わたくしはそれ以上、申し上げなかった。二十年ぶんの埃の床に足跡が一つでもあれば、それは二十年の間に入った者がいたという証になる。なければ、なかったという証になる。どちらに転んでも、埃は嘘をつかない。掃いてしまえば、どちらの証も消える。
クラムさんも、それ以上お尋ねにならなかった。
「……行き届いたことと、存じまする」
完璧なお辞儀だった。この言葉をこの方から伺うのは、二度目である。行き届いている、というのは、この方の言葉で、隙がない、という意味だとわたくしは思っている。
退がられる背を見送ってから、わたくしは帳面に一行だけ書いた。虫干しの儀、辞退。掃除は開扉の後。——誰が読んでも差し支えのない一行である。差し支えのない一行しか書けない日が、この頃、増えている。
夕刻、わたくしは西棟の廊下を検めた。
封の紙は白いままだった。貼った日の糊の照りが、少し鈍くなっただけである。卓の蝋燭、手つかず。廊下の床は掃除の済んだ手前までが明るく、扉の前だけ、日の差す木目が明るい。
異状なし。家政帳にそう書く。この頃、わたくしの見回りには、この一行が増えた。
『二百二十五日目。西棟、封、無事。お客様の御到着、おおよそ十日ののち。……開ける日が決まってゆく。決まってゆくほど、この廊下が静かになる』
その夜である。
湯を使ったあと、部屋の窓の掛け布を閉めようとして、わたくしは手を止めた。
中庭の向こう、西棟の廊下の窓に、灯りが一つあった。
蝋燭の灯りである。動いていた。窓を一つ、二つ、と数えるほどの速さで、奥へ。それから——扉のあるあたりで、止まった。
止まったまま、動かない。
見回りだろうか。ドーラさんの戸締まりは、もう済んだ刻限である。ヴィムさんは門を離れない。灯りの高さは人が手に提げた高さで、けれど、誰の背丈とも決めかねる、あいまいな高さだった。
三つ数えるほどの間、灯りはそこにあった。
ふ、と消えた。吹き消した消え方だった。
わたくしは掛け布を閉めずに、しばらく、暗くなった窓を見ていた。それから机に戻って、家政帳の今日の行に一行、書き足した。
『夜半前、西棟廊下に灯り一つ。扉の前にて止まり、消える。何者かは、見えず』
書いてから、思った。封をした扉の前に、夜、灯りを提げて立つ用事は、この家のどの持ち場にもない。
開けるための支度と、開くまで守る支度は、別の仕事でございます。錠と、封と、それから埃。——二十年ものの埃は、掃いてしまえばただの塵ですが、積もったままなら証でございます。
灯りは、三つ数える間、扉の前におりました。用のない場所に立つ灯りほど、用を感じさせるものはございません。
次回、第68話「二十年ぶりの、門」。お客様が、お着きになります。
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