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三年で離縁の契約ですが、まずこの家の帳簿を直させていただきます 〜お飾り妻の、静かな家政立て直し〜  作者: 銀月ソフィ


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第66話:削られた、斜面

 雪解けの道が固まったのは、約束の言葉どおり、ひと月の後だった。


 森へは旦那様と参った。二人で領地を歩くのは、思えば初めてである。馬車は森の入り口まで。そこから先は徒歩だった。道はまだ湿り、日陰には雪の名残が硬く残っている。旦那様の歩みは速い。速いのに、気がつくとわたくしの歩幅に合っている。合わせてくださいまし、と申し上げたことは一度もない。


 炭焼きの小屋の前で、ヨスト様が帽子を取って待っておられた。


「お屋敷の、旦那様と、奥方様」


「窯の首尾は」


「へえ。三口とも、焚いております」


 窯からは細い煙がまっすぐに上がっていた。焼き上がりまで七日。冬のあいだ、この方の三口の窯だけが、この森の本当の仕事だった。旦那様は窯の前で足を止め、しばらく火の色を見ておられた。当主が窯の火を見に来たのは、ヨスト様の覚えでは、先代様の若い頃が最後だそうである。



 斜面は、小屋から四半刻ほど登った先にあった。


 遠くからは崖崩れに見えた。近づくと、違った。崩れた土は流れた形をしていない。掬った形をしている。


 斜面の腹に、口が開いていた。人がかがんで入れるほどの、地の下への口である。口の周りの土は踏み固められ、轍が幾筋も、雪解けのぬかるみに深く残っていた。掘り出した土の山が三つ。ふるいにかけた跡のある細かい土の山が、別に一つ。杭が二本、打たれたまま残っている。急いで引き上げた者の残し方だった。


 旦那様は長く黙って、それを見ておられた。


「……これが、二冬か」


「荷馬車で、七十と五回分でございます。三冬前の三回を足しますなら、七十八回」


 わたくしはヴィムさんの控えの数字を申し上げた。轍の深さは指三本。薪の三倍より重い荷である。それが七十八回。目方に直す術を、わたくしは持たない。けれど、この土の口の大きさと、あの手間賃の太り方が、ようやく同じ絵の中に収まった。


 地の下から何が出たのか。わたくしはいまも、その名を知らない。知らないままでよい、と思っている。名を知れば、名の値段で考えてしまう。わたくしの持ち場は、目方と、回数と、手間賃である。そしてその三つが言うことは一つだった。ここから出たものは、この家の帳面に一行も立たないまま、王都の方角へ消えた。


「旦那様。この口は、いかがなさいます」


「塞がん」


 旦那様は即座におっしゃった。


「塞げば、なかったことになる。……このままにする。誰の目にも、見えるままに」


 証は、隠さない。晒しもしない。ただ、そこに在らせる。この方の詰め方は、わたくしと同じ帳面の流儀である。コルネリア様の帳面のために、口の大きさと、土の山の数と、杭の本数を、わたくしは書き取って帰ることにした。



 帰り道、ヨスト様が小屋の前で白湯を出してくださった。欠けた椀で、恐縮しながら。


 わたくしは伺った。二十年前の、凶作の年のことを。


 ヨスト様は椀を持ったまま、しばらく黙っておられた。この方は聞かれたことしか答えない。その聞かれたことをいま、頭の中の深いところから汲み上げておられる。


「……ひどい年で、ございました」


「村は、いかがでした」


「痩せました。へえ。うちの村も、下の三村も。……ですが、欠けませなんだ」


「欠けなかった」


「よその領じゃ、冬を待たずに夜逃げが出たと聞きます。うちは、一軒も出ませなんだ。年寄りはいまでも言います。あの年、税で家を潰された者は、この村にはおらん、と」


 ヨスト様はそこで、椀を置かれた。


「あの年、村の税を、お屋敷が……」


 言いかけて、この方は口を閉じられた。帽子を深くかぶり直された。


「……いえ。年寄りの、繰り言でございます。手前は読み書きをいたしませんので。確かなことは、何も」


 それきり、窯の話に戻られた。わたくしも戻した。聞いてよい深さと、いけない深さの見分けは、帳面も人も同じである。


 ただ、帰り際に、ヨスト様は一つだけ、聞かれないことをおっしゃった。


「奥方様。窯の三口の分の手当て、この春も、ちゃんと届いております。……村の者は、覚えております。止める方と、届ける方の、見分けくらいは」



 帰りの馬車で、旦那様は窓の外を見ておられた。


 森の木々が流れていく。細い、北斜面の木々である。良い材の出ない、実入りの薄い、この家がそれでも二十年、手放さなかった森である。


 わたくしは思っていた。帳簿に書かれなかったことを、土が覚えていて、人が覚えている。書かれたものだけを二十年読んできたこの家で、書かれなかったものがいちばん重い。


 西棟の扉の向こうにあるのは、たぶん、その、書かれなかったものの束である。

 崩れた土は流れた形をしておりますが、掘った土は掬った形をしております。土は帳面をつけませんのに、手口だけは正直に残すのでございます。


 「一軒も、欠けなかった」。凶作の年の村の話としては、それは奇跡と同じ言葉でございます。奇跡でないなら、誰かが静かに勘定を払っております。


 次回、第67話「扉の、封」。開ける前に、守る話でございます。


 森の帰り道までお付き合いくださった方は、どうぞブックマークを。励みになります。

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