第64話:凶作の年の、献立
春の風入れは、厨房の棚にも及んだ。
グレーテの厨房には、古い献立帳が代々積んである。革の背の、粉の染みた帳面である。捨てない。厨房のものは何も捨てない。去年の冬に何を炊いたかは、今年の冬のいちばん確かな手引きになるからである。
わたくしは風入れの手伝いにかこつけて、その棚を読ませていただいた。家政の帳簿より、献立帳の方が正直なことがある。帳簿は体裁を整える手が入るけれど、献立はその日に食べたものしか書けない。鍋の中身は、あとから書き換えられない。
頁を、二十年さかのぼった。
その冬だけ、字が痩せていた。
朝は、粥。昼は、パンと、スープ。夜は、パンと、豆。肉の行が月に二度しかない。祝いの日の頁にも、焼き菓子の一行がない。前の年の同じ月には、鳥も川魚も香草焼きも並んでいるのに。
一年だけ、である。次の年の春から、献立は少しずつ戻っている。戻り方も、慎ましかった。肉が月に四度、六度、と、帳尻を確かめながら戻る戻り方である。
「グレーテ。この年のことを、覚えておいでですか」
グレーテは、わたくしの開いた頁を覗いた。眼鏡を上げた。それからゆっくりと、手を前掛けで拭いた。何かを思い出すときの、この方の癖である。
「……凶作の年でございますよ、奥様」
「凶作」
「ひどい年でございました。夏が来ませんでしたの。冷たい雨ばかりで、麦が立ったまま腐りました。村々は種の分まで食べました。わたしどもの厨房にも、買えるものがありませんでした」
「それで、献立が」
「いいえ」
グレーテは首を振った。
「買えなかったのではございません。買わなかったのでございます。先代様がお命じになりました。屋敷の食い扶持を、半分に、と」
わたくしは頁の上の、痩せた字を見た。
「御自分の卓が、いちばんお薄うございました。粥と、パンと。先代の奥様が、それでは体に障りますと申し上げても、お聞きになりません。村が種を食っている年に、屋敷が鳥を食うわけにはいかん、と。……先代の奥様は、それならわたくしも同じものを、と仰せになって。お二人して、使用人より薄い膳を囲んでおいででした。あの冬の御夫婦の卓ほど、寂しくて、あたたかい卓を、わたしは存じません」
厨房の竈で、湯が鳴っていた。グレーテは献立帳の革の背を、そっと撫でた。
「不思議な年でございましたよ。あれだけの凶作で、春になっても、村から人が減りませんでした。よその領はひどかったと聞きます。夜逃げ、身売り。……うちの村々は、痩せはしましたが、欠けませんでした」
「なぜ、でございましょう」
「さあ。……わたしどもは、厨房のことしか存じません」
グレーテはそこで、少しだけ笑った。
「ただ、先代様は、施しという言葉をお嫌いでございました。教会の炊き出しに名を出すこともなさりません。名を出すくらいなら、出さん、と。……偏屈な方、と言う人もございましたが」
名を出すくらいなら、出さない。わたくしはその言い方を、胸の中で繰り返した。それは、出さない方の言葉ではない。名を出さずに、出す方の言葉である。
午後、わたくしは文書庫に下りた。
古い表帳簿は下の段に、年ごとに揃っている。凶作の年の綴じを抜いた。埃を払って開いた。
その年、屋敷の食費は確かに半分に落ちていた。献立帳と、ぴたりと重なる落ち方である。給金は据え置き。修繕は止まっている。厩の馬が二頭、売られている。どの行も、爪の先まで切り詰めてある。
そして冬の頁に、大きな借りが一行、立っていた。
借り先は、王都、ヒルシュ商会。額は、その年の食費の削りが可愛らしく見えるほどの大きさだった。爪の先まで切り詰めた家が、その爪の何百倍もの借りを、同じ冬に負っている。
わたくしはその行の先を、目で追った。借りた金は必ずどこかへ出る。出た先が、帳簿のどこかの行に立つ。立つはずである。
なかった。
その冬から春にかけて、借りた額に見合う出金の行が、この帳簿のどこにもない。金は、入った形だけがあって、出た形がない。
わたくしは綴じを閉じて、しばらく、埃の匂いの中に立っていた。
これが、使途不明金と呼ばれてきたものの、最初の年である。放蕩、と呼ぶ人もいる。けれど、粥を啜りながら放蕩をする人を、わたくしはうまく思い描けなかった。
献立帳は、家政の正直の、最後の砦でございます。帳簿は整えられますが、その日の鍋の中身は、あとから増やせませんので。
粥の年に、大きな借りがひとつ。借りた形はあるのに、出た形がない。——「不明」というのは、無いことではございません。書かなかった、ということでございます。
次回、第65話「目録の、お稽古」。開かずの間を開けるための、書き取りの練習でございます。
この帳面の続きは、ブックマークがしおりでございます。




