第62話:宿帳の、写し
便が返るまでの十日、屋敷には春の仕事が積んであった。
冬のあいだ閉めていた部屋の風入れ。絨毯を上げ、掛け布を替え、暖炉の灰を落とす。ドーラさんが差配し、ミーナが走り、グレーテの厨房からは久しぶりに青いものの匂いがした。北の国の春は短い。短いから、家政は春にいちばん急ぐ。
わたくしはその合間に、西棟の廊下を二度歩いた。用はなかった。ただ扉の前を通って、閉じていることを確かめただけである。錠は錆の色のまま、二十年、回された跡がない。
閉じている、ということを確かめたくなる。そういう扉になっていた。
コルネリア様は、ご自分の帳面の新しい頁を立てられた。表題は「西棟」。まだ何も書くことのない頁である。何も書くことのない頁を先に立てておくのは、わたくしの流儀だった。いつの間に、盗まれたのだろう。
便は十一日目の午後に返ってきた。飾り文字の「H」の封蝋である。
中には翁の手紙と、もう一枚、厚い紙が入っていた。
『奥様。お申し越しの控え、店の古い帳面より写し起こしました。写しの手は、当のフックスでございます。自分の宿の控えを自分の手で写すというのも、妙な仕事でございましたろうが、あの男、断りませなんだ。……ちなみに手間賃も、受け取りませなんだ。二十年前の自分の泊まり賃を、いまさら値切る気か、と申しましたら、笑いもしませなんだな』
厚い紙の方を開いた。写字の字が、行をまっすぐに揃えていた。
二十年前の冬。王都、麦の穂亭。長逗留、ひと月と四日。連れなし。発ちは年明けの七日。支払いはヴェッセル家の為替。備考の欄に、宿の主人の古い字で一行——先代様の御用の由。
わたくしはその一枚を、二十年前の取極めの写しの隣に置いた。
取極めの日付は、二十年前の冬のさなかである。立会人の欄にはフックス様の名。けれどその日、フックス様は王都の宿にいた。ひと月と四日、動いていない。宿の帳面がそう言っている。
署名と、宿帳。書面と、書面。どちらかが嘘をついている。そして宿の帳面には、嘘をつく理由がない。宿は泊まった客から泊まり賃を取る。いなかった客を書き足しても、一銭にもならない。理由のない嘘を、帳面は書かない。
夜、わたくしは旦那様に二枚をお見せした。
旦那様は長く読んでおられた。読み終えてからおっしゃった。
「疑義では、なくなったな」
「はい。あの取極めは、いなかった人の名で立っております」
「森の差配の根が、偽の署名で立っていた。……二十年」
その方はそれきり黙られた。二十年、という言葉は、この家ではいつも同じ場所に落ちる。管財人の在職と、前任者の出奔と、取極めと、借金の始まりと。同じ年に、あまりに多くのものが動いている。
わたくしは、次の仕事の話をした。
「旦那様。西棟の扉のことでございますが」
「ああ」
「鍵が戻り、目録を整え、お日取りを決めましたら——立会人を、お願いしたい方がございます」
開かずの間を開けるとき、中から出たものを証にするには、家の者だけで開けてはならない。誰かが後から入れた紙だと言われれば、しまいである。それは旦那様ご自身がおっしゃったことだった。
ならば立会人は、外の方。それも、二十年前のこの家を知り、帳面が読めて、この家の借りに目の曇らない方。
「ヒルシュ様と」
わたくしは申し上げた。
「フックス様に」
旦那様はすぐにはお答えにならなかった。卓の上の宿帳の写しを、もう一度、手に取られた。
「……貸し手と、前の管財か」
「はい。貸し手の帳面と、当時の目録を知る手と。両方が揃って、初めて、中のものが証になります」
「フックスは、来るか」
それはわたくしにも、わからなかった。あの方は二十年前、帳簿だけは燃やすなと叫んで、この家を夜のうちに出た方である。二十年、敷居を跨いでいない。金貸しの使いにさえ嫌な顔をなさる方だという。
「来ないなら、私が王都へ出向く」
旦那様は、静かにおっしゃった。
「証言を乞う側が、座って待つ法はない。……だが」
「だが」
「あの人には、この家の門を、自分の足でもう一度くぐる借りが、ある気がする。こちらの借りだ。あの人のではない」
わたくしは、翁の手紙の最後の行を思い出していた。あの男は二十年、待っておりましたな。誰かが、この件で訪ねてくるのを。
わたくしは、招きの文を二通書いた。一通は道を指してくださる御方へ。一通は、二十年前にこの家を出た方へ。後の一通は、三度、書き直した。詫びるのでもなく、乞うのでもなく、ただ、お迎えの支度がございます、と書けるまでに、三度かかった。
ひと月と四日。宿の帳面はそれだけを言うために、二十年、棚で待っておりました。書面の強いところは、待てるところでございます。人の記憶は薄れますが、帳面は書かれた日のまま動きません。
立会人と、目録と、お日取り。三つのうち、いちばん難しいのは人でございます。二十年前に家を出た方をお招きする文は、三度、書き直しました。
次回、第63話「叔父様の、返し状」。王都から、鍵が帰ってまいります。
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