第61話:管財の、鍵箱
春の月次は静かに締まった。数字は動かず、森の行は立たないままだった。食費は安定、給金は据え置き、納入は両商会とも入用どおり。返済は再設計後の額でまっすぐに流れている。
読み上げを聞き終えて、わたくしは帳面を閉じた。締めたばかりの月次に、直す行はない。直す行のない月次というものを、この家はようやく、当たり前の顔で迎えられるようになった。
次の仕事に移る。
鍵である。
財産目録を机に開いた。三年前、先代様が亡くなられた後に作られたもの。作成者の欄にはクラムさんの名がある。鍵の項、西棟の行。
『西棟書斎。鍵、二本。うち一本、紛失』
一本は叔父様の鞄の中にあった。それはミーナが見ている。では、紛失していない方の一本は、いまどこにあるのか。
わたくしはこの問いを、これまで後回しにしてきた。答えの見当が、ついていたからである。見当のついている問いは、検める段取りを整えてから、問うに限る。
「管財の、鍵箱にございまする」
お尋ねした朝、クラムさんはそうお答えになった。
「屋敷の鍵の控えは、代々、管財の役が預かるものでございますれば」
「拝見できますか」
「ただいま」
箱は四半刻で事務室の卓に載った。黒い、古い、樫の箱である。蓋を開けると、中は仕切りで区切られ、木の札が立ち、鍵が並んでいた。厨房。酒蔵。物置。どれも頭が丸く、真ん中に穴の開いた、この屋敷の形だった。西棟、と書かれた札の下にも、鍵が一本、下がっていた。
頭は、丸かった。
わたくしはそれを手に取らず、まず、卓の位置だけを変えさせた。窓の光がまっすぐ当たる場所へ。検めものは、明るいところでするものである。
それから、ミーナを呼んだ。この娘は去年から鍵の当番である。屋敷の鍵を、全部、手に取ったことがある。
ミーナは、その一本を手に載せた。指で頭をなぞり、灯りに透かし、耳の横で一度振った。それから顔を上げた。
「奥様。これ、うちの鍵じゃないです」
「頭は、丸いようですが」
「丸いだけです。穴が、ないんです」
ミーナは箱の中の厨房の鍵を隣に並べた。
「うちのは、先代様が鍛冶屋一軒にまとめて作らせたから、全部、頭の真ん中に穴が通ってます。紐を通す穴です。これは、丸いけど、穴がない。それに、ほら。うちのは使い込んで、握るとこだけ色が明るいんです。これ、全体が同じ色してます。……似てるだけです。遠くから見たら、わかんないと思います」
卓の上に、二本の鍵が並んでいた。本物の形と、似せた形と。
わたくしはしばらく、それを見ていた。似ている、ということが、こんなに雄弁だとは思わなかった。間違えて紛れ込んだ鍵は、似ない。似せた鍵は、似せる理由があって、そこにある。
「クラムさん。この鍵は、いつから、この箱に」
「先代様の御代より、この箱のままにございまする」
クラムさんの声は、揺れなかった。
「手前が箱をお預かりしましたのは、着任の年でございます。以来、西棟の鍵を箱から出したことは、ございません。西棟は、開かずの間でございますれば」
「では、この鍵が本物であったかどうかを、確かめた方は」
「……おられぬかと、存じまする」
そうだろう、とわたくしは思った。開けない扉の鍵は、誰も検めない。二十年、誰も開けなかった部屋の鍵は、二十年、誰の目にも触れずに済む。
嘘は、ついておられない。この方は、嘘のいらない場所にだけ、立っておられる。箱を検めなかったのは事実で、検めなかった箱の中身に責めを負う役は、この家のどこにもない。
この箱に、いつから、この似せた鍵が入っていたのか。それに答えられる者が、この家には一人もいない。
「目録に、追記をいたします」
わたくしは、その場で書いた。
『西棟の項に補記。箱内の一本、当家の鍵にあらず。似せ物と判ず。検分、奥様、鍵当番ミーナ。立ち会い、管財クラム』
クラムさんは、ご自分の名が書かれるのを、まばたきもせずに見ておられた。
午後、わたくしは書面を二通書いた。
一通は王都のオスカー様へ。当家財産目録に記載の品が御手許にあると存じます、と。責める言葉は一つも書かなかった。書かなくても、目録の写しを一枚添えれば済む。作られたのは三年前。作った手は当家の管財である。目録は、こういうときのためにあるものでございますので。
末尾に、旦那様が署名なさった。ペンを置かれてから、その方は短くおっしゃった。
「……叔父上は、返してくる」
「はい」
「身内の顔で、返してくる。それが、あの人だ」
もう一通はヒルシュ様へ。フックス様の宿の控えの写しを、お願いする文である。二十年前の冬、王都にひと月。お戻りは年明け。それが帳面で立てば、あの署名の疑義は、疑義ではなく証になる。
便は翌朝、王都へ発つ。馬車で五日。
わたくしは二通に封をして、事務室の窓の外を見た。雪は屋根から落ちきっていた。北の国の春は、音から始まる。雫の音と、荷馬車の車輪の音と。
西棟の扉は、まだ閉じている。けれど、その鍵をめぐる帳尻は、今日から動き始めた。
鍵箱の中に、似せた鍵が一本。——似ている、ということには、似せた理由がございます。間違いは似ません。細工だけが、似るのでございます。
目録に「紛失」と書けるのは、目録を作る手だけでございます。そして、その一行を武器にできるのも、目録を読む手だけ。第六章は、この一行の帳尻合わせから始まります。
次回、第62話「宿帳の、写し」。二十年前の冬の、宿の控えが王都から届きます。
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