第60話:西棟の、扉
春の森へは、まだ入れなかった。雪解けの斜面は、雪の季節より危ない。土が、緩んでいる。橇も、荷馬車も、上がれない。あの削られた斜面をこの目で見るのは、もう一月ほど、先になる。
けれど、森へ行かずとも、できることが、あった。わたくしは帳面の側から、止めることにした。
「クラムさん」
わたくしは月初めの打ち合わせで、そう申し上げた。
「北の森の森方の手当てにつきまして」
「はい」
「以後、当主の御承認をいただくことといたします」
クラムさんは、顔を上げられた。
「……畏れながら。森方の差配は、二十年前の取極めにより、管財の役の者が執り行うものと、定められておりまする」
「さようでございます」
わたくしはうなずいた。
「その取極めの立会人の署名に疑義がございます」
わたくしは卓の上に写しを二枚、並べた。
「疑義が晴れるまで当家は、あの取極めを根拠として用いることが、できません。根拠のない委任は、委任ではございません。……よって、森方の差配はいったん、当主のもとへ戻ります」
「奥様。それでは、森の仕事が、止まりまする」
「炭焼きは、止まりません」
わたくしは申し上げた。
「ヨスト様の窯の分は、これまでどおり、お出しいたします。炭は、村の暮らしでございます。止めては、なりません」
「では何が止まりまするか」
「窯に来ない方々の手当てでございます」
クラムさんは、しばらく何も、おっしゃらなかった。この方は、争わない。四月、それを見てきた。この方が、こちらの手に敵わないと見たとき、必ずこうなさる。まばたきを二つ。それから、深くお辞儀をなさる。
「……かしこまりました」
完璧なお辞儀だった。
翌月の月次である。わたくしは行を一つずつ、確かめた。
食費、安定。
給金、据え置き。
納入、両商会とも、入用どおり。
返済、再設計後の額にて、まっすぐ。
森方、材木と炭。手当ては、窯の三口の分のみ。
そして、冬の人足の手間賃の行が、なかった。
消したのでは、ない。わたくしはその行を消していない。当主の御承認をいただく形にした、それだけである。承認を求める書面が、上がってこなかった。それだけのことでその行は月次から、落ちた。
二冬、この家の食費より多かった支出が、書面一枚の順番を変えただけで、立たなくなった。立てられなかったのである。当主の承認の欄にこの二十人が何をしているかを、書けなかったから。
その週、わたくしは門へ下りた。
「ヴィムさん」
「はい、奥様」
「北の道は、いかがでございましょう」
ヴィムさんは、控えを開かれた。ゆっくりと日付を辿られた。それから、顔を上げられた。
「出ませぬ」
火鉢の炭が小さく鳴った。
「この半月、北の道へ荷は一つも」
わたくしはその、白い頁を見ていた。四十六回。二十九回。そして、この半月は零。数字が一つ、合った。
わたくしはこの四月、いくつかの数字を合わせてきた。卵も、蝋燭も、名簿の人数も、葡萄酒の樽も、返済の戻り先も。そのたびにこの家が少しずつ軽くなるのを見てきた。
今日の一つは少し、違った。これは、この家に何も、戻ってこない数字である。森から出ていたものは、二十年、この家の帳面に一行も、立っていなかった。だから、止めても、収入は一銭も増えない。
それでも、わたくしはこの零を長く、見ていた。盗まれ続けることをやめた家の数字が、こういう形をしていることを、初めて、知った。
玄関の燭台は、十八座のままである。あと六座。わたくしは今月も、増やさなかった。
湖の水は、まだ抜けていない。ドルンの口は、王都で開いたままだ。七日の木箱は、道を変えて、動いている。三冊目の帳簿は、見つかっていない。二十年前の署名を書いた手は、まだ名前を持たない。そして、この家の森の下から出たものが、いまどこの誰の蔵に積まれているのかをわたくしは知らない。
合っていない数字が、まだこれだけ、ある。燭台は、それが全部、合った日に二十四座にする。
『百九十日目。森方の手当て、当主承認制へ。翌月次より冬の人足の手間賃、計上なし。北の道への荷、この半月、零。契約の残り、二年と五月』
わたくしは家政帳を閉じた。閉じてから、もう一度、開いて、一行、足した。
『お祖母様。この家の森は、いま誰のものでも、ございません。誰のものでもないというところまでは、参りました』
その日の夕刻。わたくしは西棟の廊下にいた。旦那様が、先に立っておられた。扉の前である。
埃の匂いがした。この廊下は、四月前、初めて通った日から、何も、変わっていない。掃除だけは、入れてある。扉の前の床だけ、木目が少し、明るい。誰かが、繰り返し、そこに立ったからではない。ただ、日が差すからである。
「叔父上が、持っている」
旦那様が、そうおっしゃった。
「はい」
「三年前だな」
「……ヴィムさんの控えでは、御葬式の後、六日、御逗留でございました」
「六日」
旦那様は、扉を見ておられた。
「私は、その六日を覚えていない。父が死んだ週だ。何を見たかも、誰と話したかも、覚えていない」
わたくしは何も、申し上げなかった。覚えていない六日の間に、家から出ていったものが、一つ、あった。それがいま王都の四頭立ての馬車に乗って帰った。
「開けますか」
わたくしは伺った。旦那様は扉の把手に手を伸ばしかけて、下ろされた。
「いや」
その方は、そうおっしゃった。
「立会人と、目録と、お日取りだ。……あなたが、そう言った」
わたくしは少し、驚いた。それは、二月前にわたくしが、この方に申し上げたことだった。開かずの間を開けるときは、作法を整えてから。そうでないと中から出てきたものが、証にならない。この方は、それを覚えておられた。
「錠前屋を呼べば、明日にでも、開く」
旦那様は扉から、目を離さずにおっしゃった。
「開けたら、中のものは、ただの紙になる。誰かが後から入れた紙だと、言われて、しまいだ。……二十年、誰も開けなかった部屋だ。あと少し、待てる」
「はい」
「叔父上の鍵を取り返す。目録を作る。立会人を立てる」
旦那様はそこで初めて、こちらを御覧になった。
「あの部屋を開けるときは」
いつもの抑揚のない声だった。
「あなたに立ち会ってもらう」
わたくしは頭を下げた。下げた顔をしばらく上げられなかった。
廊下の窓から、日が、差していた。北の国の春の、細い日だった。
扉は、閉じたままである。その向こうに二十年前の最初の一枚がある。父の遺した最後のものが、ある。この家の借りが、どこから始まったのかも。
わたくしはその扉を見上げた。契約の残りは二年と五月。
開ける日は、まだ決まっていない。けれど、開ける日に誰が立ち会うかは、今日、決まった。
これにて第五章「北の森と、分家の椅子」、締めでございます。
人好きのする叔父様が来て、完璧な書面を置いていかれました。冬の森では、二十人が、窯に来ないまま働いておりました。二十年前の取極めの立会人は、その席に、おりませんでした。
この章でアデーレが使ったのは、断罪でも告発でもなく、承認の欄を一つ増やすことだけでございます。それだけで、二冬つづいた支出が月次から落ちました。書けないものは、書面にならない。書面にならないものは、立たない。——この家の戦い方でございます。
燭台は、十八座のままです。合っていない数字が、まだ、これだけございますので。そして、開かずの間の鍵は、二本ございました。
次章、第六章「先代の、使途不明金」。西棟の扉が、開きます。まずは、鍵の帳尻から。
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