第59話:叔父様の、鍵束
その晩、オスカー様は、屋敷に泊まられた。雪解けの道は、夜に走れるものではない。当然の逗留だった。
夕餉の席でその方は、また笑っておられた。事務室での顔は、どこにも、なかった。葡萄酒を二杯。北の街道の話も、王都の物価の話も、来たときと同じ調子だった。ミーナが給仕をしくじって、皿を鳴らしたときも、「よい、よい」と、手を振っておられた。
わたくしはその方の笑い皺を見ていた。この方は、切り替えのうまい方である。
いや——と、わたくしは思い直した。切り替えているのでは、ないのかもしれない。この方にとって、事務室の一刻は、身内のあいだのちょっとした行き違いに過ぎないのだろう。
「レナート」
オスカー様が、杯を置いて、おっしゃった。
「怒っておらんよ、私は」
「……」
「あれはいい奥方だ。お前にはもったいない」
旦那様は、何も、おっしゃらなかった。
「兄上の家だ。急がんよ」
その方は、笑われた。
「私は、二十年、待ったのだ。あと二年や三年、どうということもない」
わたくしはフォークを、置いた。二十年。この方は、いま二十年とおっしゃった。
翌朝、荷が、下ろされた。客人の荷は、ミーナと下働きの者が、運ぶ。わたくしは玄関の段の上で、見送りの支度をしていた。
オスカー様の馬車が、門を、出た。四頭立てのこの屋敷には大きすぎる馬車が、雪解けのぬかるみを、王都の方へ、下りていった。
その、半刻後だった。ミーナが、洗濯場から、飛んできた。
「奥様。あたし、見ちゃったんですけど」
わたくしはペンを置いた。
「今朝、オスカー様の革の鞄を運んだんです。上の段から。そしたら、留め金が外れてて」
「中を御覧になりましたの」
「見てません。落ちたんです、外に」
ミーナは、両手を広げた。
「鍵束が。じゃらっ、て」
「……鍵束」
「はい。輪っかにまとめてあるやつ。あたし、慌てて拾って、戻したんですけど」
この娘は、そこで少し、口を尖らせた。
「そのとき、変だなって、思って」
「どこが、でございましょう」
「一本、うちのがあったんです」
わたくしは顔を上げた。
「奥様、うちの鍵って、全部、頭が丸いんです」
ミーナは、指で輪を作った。
「こう丸くて、真ん中に穴が開いてて。厨房のも、洗濯場のも、酒蔵のも、みんな。ドーラさんが言ってました。先代様が、まとめて作らせたんだって。鍛冶屋が一軒だったから、みんな同じ形なんだって」
「はい」
「オスカー様の束の中に、その形のが一本。古いやつ。他のは、頭が四角いんです。王都の形だと思います」
わたくしはゆっくりと息を吸った。
「ミーナ。あなたはこの屋敷の鍵を全部、御覧になっていますか」
「見てます。だって、掃除するとき、みんな借りるじゃないですか。あたし、鍵の当番、去年から」
「では伺います。……その古い鍵は、この屋敷のどの扉のものですか」
ミーナは、しばらく首を傾げていた。それから、はっきりとおっしゃった。
「どれでも、ないです」
「どれでも、ない」
「うちの形なのに、うちの扉に、ないんです。あたし、全部の扉、開けたことあります。物置も、酒蔵も、東の物置の奥のも。……あの形でまだ開けてない扉って、うち、一つしか、ないですよ」
わたくしはその、一つを知っていた。四月前から、知っていた。わたくしは立ち上がった。
門へ下りた。ヴィムさんは、控えを、出してくださった。三年前の冬の頁である。
「先代様の御葬式でございます」
ヴィムさんの節くれ立った指が、日付を辿った。
「オスカー様はその日の朝にお着きになりまして。……お発ちが、七日後でございます」
「七日」
「はい。御葬式のあと六日、逗留なさいました」
わたくしはその、七日分の頁を見た。門の出入りが、書いてある。弔問の客。町の医者。棺の職人。そして——
「ヴィムさん。この、五日目の」
「はい。……クラム様が王都へお発ちになっております。夜でございます。お戻りは翌々日」
葬式の五日目に管財人が、夜、王都へ発っている。その日、屋敷には、分家の叔父上が、逗留しておられた。
わたくしは屋敷へ戻り、財産目録を出した。先代様が亡くなられた後に、作られたものである。三年前。作成者の欄には、クラムさんの名がある。
わたくしはこの目録を一度読んでいた。四月前、嫁いですぐに。あのときは、燭台の座数を確かめるために読んだ。二十四座、と書いてある頁だけを。
今日は、別の頁を開いた。鍵の項である。屋敷の鍵は、扉ごとに本数が、書いてある。厨房、二本。酒蔵、一本。物置、三本。
わたくしは指を下へ滑らせた。西棟。
その行に但し書きが、あった。細い、垂直に揃った、撥ねを跳ねない字で。わたくしはそれを読んだ。
『西棟書斎。鍵、二本。うち一本、紛失』
うちの形なのに、うちのどの扉にも合わない鍵。あの形で、まだ開けていない扉は、この屋敷に、一つしか、ございません。
ミーナは第4話からずっと「あたし、見ちゃったんですけど」と言い続けてきた娘でございます。物の置かれ方と、人の動線を、全部覚えている。本人はそれを、才だと思ったことが一度もない。——そういう人が、いちばん強い証人になります。
次回、第60話「西棟の、扉」。第五章、締めでございます。
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