第58話:分家の、椅子
雪解けの頃、オスカー様は、戻ってこられた。わたくしはその前の三日で卓を整えた。
場所は、客間ではなく、事務室にした。客間は、もてなす部屋である。もてなす部屋では、こちらが、供応する側になる。事務室は、書面の部屋である。書面の部屋では、双方が、書面の側に座る。
席は、四つ。上座に、旦那様。その右に、オスカー様。左にわたくし。四つ目の椅子は、卓の端に少し離して、置いた。クラムさんの席である。管財の役は、当事者ではない。控えの位置に、座っていただく。
卓の上には、三つ。オスカー様の後見の書面。二十年前の取極めの写し。王都からの返信。
茶は、出さなかった。
「これは、堅苦しいな」
オスカー様は、椅子に腰を下ろされながら、笑われた。
「私は、身内のつもりで参ったのだが」
「ご無礼を、お詫び申し上げます」
わたくしは頭を下げた。
「わたくしどもは、御身内として、お迎えいたしております。ただ、お預かりの取極めは、御身内であっても、書面でいたす決まりでございます。……この家では、この四月、そのように改めてまいりました」
「なるほど。噂どおりだ」
オスカー様は、上機嫌に見えた。
旦那様は、何も、おっしゃらなかった。この日、旦那様には、何もおっしゃらないでいただくよう、前の晩に、お願いしてあった。この件は、家政の書面である。わたくしの職分である。旦那様は、「わかった」と、それだけ、おっしゃった。
それから、扉のところで一度足を止めて、「四つ目の椅子は、端でよいのか」と、お尋ねになった。卓の図は、お見せしていなかった。
わたくしは回答の書面を開いた。
「お返事を申し上げます」
『分家オスカー・フォン・ヴェッセル様よりの、後見に関するお申し出につき、当家の回答は、次のとおりでございます。
一、東の畑地三区画、南の水車小屋、街道沿いの空き家二軒。お申し出の条件のとおり、お預けいたしたく存じます。ご厚意に深く御礼を申し上げます。
二、北の森。これを、お預けいたしかねます。
三、その理由は、当家が、北の森の権原を確かめられぬためでございます』
わたくしはそこで一度顔を上げた。オスカー様の笑い皺は、まだそこにあった。
「二十年前の冬、北の森の入会と山方の権につき、取極めがございました。この取極めにより村の慣いは、当家の差配へ一本化されております」
わたくしは写しを卓の中ほどへ置いた。
「立会人の欄に、当時の管財、フックス様の署名がございます」
次に王都からの返信をその隣に置いた。
「フックス様は、王都にて、写字を生業としておいでです。当家よりこの署名につき、お伺いを立てました。お返事は、二行でございました。……『手前の字では、ございません』」
誰も、口を開かなかった。わたくしはその静けさの中で続けた。
「当家は、この二十年、この取極めを根拠に北の森を差配してまいりました。その根拠となる書面の、立会人の署名が、本人のものでないとの、本人の書面がございます」
わたくしは回答書へ目を戻した。
「疑義の残る財を他家へお預けするわけには、参りません」
「奥方」
オスカー様が、口を開かれた。声は、まだ柔らかかった。
「それは、二十年前の話だ」
「さようでございます」
「私は、当時、この家に関わっておらん。分家の暮らしをしておった。その書面を見たことも、ない」
「さようでございましょう」
わたくしはうなずいた。
「ですから、お預けできないのでございます」
オスカー様が、こちらを見た。
「……なんと」
「オスカー様が、その取極めに関わっておられないのであれば。もし、当家が北の森をお預けし、後になって、あの取極めが崩れましたら。困られるのは、預けた当家ではなく、預かられたオスカー様でございます」
わたくしは手を膝の上で揃えた。
「権原の定かでない土地を、御身内に押しつける。それは、家政をあずかる者として、いたしかねます。……分家様にそのような御迷惑をおかけするわけには、参りません」
わたくしはこの方を、責めていなかった。一言も。この方を、案じているのである。書面の上では、そうなっている。書面の上でそうなっているものは、書面の上で、覆すほかない。
「畏れながら」
控えの椅子から、声が、した。クラムさんだった。
「奥様。疑義と申されますが。……書面一枚のお返事にて、二十年の取極めを疑義とされますのは、いささか、性急かと存じます。証は、ございましょうか」
完璧なお辞儀だった。角度も、間も、いつもどおりだった。
「クラムさん」
わたくしはその方を見た。
「証を立てるのは、お預けする側では、ございません」
わたくしは一度息を置いた。
「お預かりになる側でございます」
クラムさんは、何も、おっしゃらなかった。まばたきが、二つ、続いた。この方が、まばたきをなさるのは、退がるときである。
「……その、王都の書面を」
オスカー様が、おっしゃった。
「見せていただけるか」
わたくしは卓の下から、一枚を取り出した。前の晩に、写しておいたものである。
「写しでよろしければ」
わたくしはそれを両手で差し出した。
——四月前、わたくしはこの家の帳簿を、見せていただけなかった。原本はだめだと、言われた。だから、写しで結構です、と申し上げた。あのとき、写しを乞う側だった。今日は、差し出す側である。
オスカー様は、その一枚を、受け取られた。受け取って、二行を読まれた。
笑い皺が。
止まった。
消えたのでは、なかった。目尻の皺は、そこにある。ただ、動かなくなった。刻まれた線が、ただの線に変わっていた。
その顔をわたくしは初めて、見た。三日の逗留の間も、土産を配られたときも、亡くなった義姉の話をなさったときも、この方の顔は、動いていた。いまは、動いていなかった。
「……春にまた参る」
しばらくして、オスカー様は、そうおっしゃった。立ち上がられた。
「奥方。よい書面だった。私は、書面をちゃんと書く者を好む」
「恐れ入ります」
「ただ」
その方は、外套を受け取りながら、こちらを見ずにおっしゃった。
「疑義というのは、晴れるまで疑義だ。晴れぬあいだその森は、誰のものでも、ない」
扉が、閉まった。
人が退がった後、事務室に旦那様とわたくしが、残った。わたくしは卓の上の三枚を揃えていた。旦那様が、立ち上がられた。それから、上着の内から、紙を一枚、出された。卓の上に置かれた。
古い紙だった。折り目が、深い。端が、擦り切れている。長いこと誰かが、繰り返し、畳んでは、開いたものの、擦り切れ方だった。
わたくしはそれを見た。書いてあるのは、数字だった。名前と数字。村の名らしいものが、いくつか。それだけの覚え書きである。字は、大きく少し、傾いでいた。二十年前の取極めに、署名しておられた、あの字だった。
「旦那様。これは」
「父の、手控えだ」
旦那様は、それだけ、おっしゃった。
「……全部では、ない。一枚だけだ」
そして、扉の方へ歩かれた。
「西棟に残りが、ある」
断罪は、いたしませんでした。ただ、お預かりになる側が困られては困る、と申し上げただけでございます。書面の上でそうなっているものは、書面の上で、覆すほかございません。
第4話でアデーレは「写しで、結構です」と申し上げて帳簿を手に入れました。あのとき乞う側だったものを、今日は差し出す側で使っております。この一言を返す日を、五十四話ぶん、待っておりました。
次回、第59話「叔父様の、鍵束」。あの娘が、また、見てしまいました。
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