第56話:写字屋の、返信
わたくしは二通、書いた。一通は、ヒルシュ様へ。道を指してくださると、おっしゃった御方へ。もう一通は、その御方に託す、フックス様へのお伺いである。
同封したのは、写しだった。二十年前の取極めの、末尾の部分だけ。立会人の欄をわたくしが、自分の手で写した。一画ずつ、原本の上に紙を置いて、透かして、なぞった。撥ねの角度も、払いの止まる位置も、そのままに。
お伺いは、一行で済んだ。
『この署名は、貴殿のお手によるものでございましょうか』
余計なことは、書かなかった。人に何かを尋ねるとき、こちらの見立てを添えると、相手は、その見立てに合わせて答えてしまう。答えを買いに行ってはいけない。祖母の家政帳の十一頁目である。
便は王都へ発った。馬車で五日。返りが、五日。写しを起こすのに、幾日かかるかは、わからない。
その間に雪が来た。北の森の道は、閉じた。もう橇も上がれない。春の雪解けまであの斜面を見に行くことは、できない。
わたくしはその閉じた道のことを、毎日、考えていた。道が閉じても、荷馬車は、四十六回、出ていた。去年の冬に。雪の中を。閉じるのは、こちらの道だけなのだと、思った。
その冬、屋敷は、静かだった。
オスカー様の書面は、机の引き出しに入っていた。春までに返事をせねばならない。
クラムさんは、いつもどおりだった。月次の数字をいつもどおりに揃えてこられる。森の帳面のことも、文書庫のことも、一度も、お尋ねにならなかった。尋ねないということが、この方の場合、いちばん雄弁だった。
コルネリア様は、ご自分の帳面をまだ続けておられた。誰にも頼まれていないのに、屋敷の中の数を書き留めておられる。竈の薪の減り方。洗濯場の石鹸。
「義姉様。これ、何の役に立つの」
「いつか、思い出せないことを思い出させてくれます」
「……ふん」
この方は、ふん、とおっしゃりながら、翌日も、書いておられた。
便が返ってきたのは、雪が、屋根の高さまで積んだ頃だった。二通、あった。
一通は、飾り文字の「H」の封蝋。ヒルシュ様である。
『奥様。道を指すと申しました手前、ちゃんと指してまいりました。写字のフックスは、達者にしております。金貸しの使いが行くと、大層、嫌な顔をされましたが、奥様の御名を出しましたら、その場で筆を執りました。……老人の見立てを一つだけ。あの男は、二十年、待っておりましたな。誰かが、この件で訪ねてくるのを』
もう一通は、封蝋も、飾りも、なかった。ただ、紙が美しかった。写字を生業とする方の紙である。字はもっと美しかった。
その字でたった、二行が、書いてあった。
『手前の字では、ございません。
二十年前の冬、その取極めの席に手前は、おりませんでした。あの冬、手前は、王都におりました。先代様のお使いにて、ひと月ほど。お戻りは、年が明けてからでございます。宿の控えが、ヒルシュ様の店の帳面に、残っておるはずでございます。お確かめくださいまし』
わたくしはその二行を読んだ。それから、卓の上に二枚を並べた。二十年前の立会人の署名。いま届いた、本人の字。
似ていた。よく、似ていた。素人が見れば、同じと言うだろう。名の形は、そっくりだった。
けれど、撥ねが違った。
フックス様のいまの字は撥ねを上へ跳ねない。写字の字である。次の字に、すぐ移れるように、右へ水平に逃がす。二十年、それを生業にしてきた手の、癖だった。
書面の署名は、撥ねが、上へ跳ねていた。小さく。しかし、はっきりと。
わたくしは椅子の背にもたれた。
あの書面は、正しかった。文言も、条も、体裁も、判も、日付も。四月かけて読んだこの家のどの書面より、正しかった。正しくなかったのは、そこに立っていた人間である。
二十年前の冬、あの席にフックス様は、いなかった。誰かが、いない人の名を書いた。書き慣れた手で落ち着いて、上等な紙に。そして、その紙は、二十年、誰にも開かれずに文書庫の下の段でこの家の森の地の下を、押さえ続けていた。
わたくしはこれまで数字の嘘と戦ってきた。数字は、足せば合う。合わなければ、どこかが、嘘である。
書面の嘘は、足しても、引いても、合ってしまう。合ってしまうから、二十年、誰も、気づかなかった。
わたくしは灯りを近づけた。その、上へ跳ねる撥ねをもう一度、見た。
——見たことが、ある。
クラムさんの字では、ない。あの方の字は、毎日、見ている。細く、垂直に揃った字で撥ねを跳ねない。旦那様の字でもなければ、先代様の字でもなかった。文書庫の綴じをどの年のどの手代まで辿っても、この撥ねは、出てこない。
この屋敷の誰の字でも、なかった。
けれど、わたくしはこの撥ねを一度見ている。最近だった。ごく、最近。
紙の上ではなく——木の、上で。
二行の返信でございました。「手前の字では、ございません」。二十年前の冬、あの席に、あの方は、おられませんでした。
人にものを尋ねるときは、こちらの見立てを添えない——これは祖母の家政帳の十一頁目でございます。見立てを添えると、相手はその見立てに合わせて答えてしまいますので。
次回、第57話「二度目の、季節」。契約の、二度目の確認書面が、届きます。
ブックマークと評価が、次の一話の燃料でございます。




