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三年で離縁の契約ですが、まずこの家の帳簿を直させていただきます 〜お飾り妻の、静かな家政立て直し〜  作者: 銀月ソフィ


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第48話:保証人の、署名

 わたくしは、その署名を、声に、出して、読んだ。


「……マルガレーテ」


 褪せた、薄紫のインクの名。ヴェッセル家の、いちばん古い借りの、家政の保証人の欄に、書かれた名。


 わたくしの、祖母の、名だった。


 老人は、静かに、うなずいた。驚いていなかった。この人は、わたくしがこの名を読むことを、初めから、待っていた。


「マルガレーテ様。……三十年前、この御家の、侍女頭でいらした御方でございます」


「ご存知、でしたのね」


「一度だけ、お会いいたしました。若い頃、父の使いで、証文をお届けに、参ったとき。あの御方が、この保証人の欄に、署名をなさるのを、この目で、見ておりまする」


 老人は、飴色の帳面の、その古い頁を、指で、そっと、撫でた。まるで、旧い知己の頬に、触れるように。


「見事な、署名でございました。震えも、迷いも、ない。『この家の家政は、わたくしが、請け合います』——そう、一文字ずつ、書いておられました。金貸しの父が、帰りの馬車で、こう申しました。『あの侍女頭がいるかぎり、ヴェッセルの借りは、堅い』と。……家政の側に、あれほど、信の置ける者がおる家は、そうは、ございませんでしたからな」



 わたくしは、しばらく、その名から、目を、離せなかった。


 祖母は、この家に、いた。三十年前、この家の、いちばん奥で、台所と蝋燭の数を束ね、この家の借りを、家政の側から、請け合っていた。「必ず、遣り繰りで、返せます」と。


 その祖母が、南へ去り、わたくしの母を生み、わたくしを育て、そして、あの家政帳を、遺した。


『ヴェッセルの家を、お願い。あの方との約束を、わたしの代で終わらせないで』


 祖母の、遺言。


 あの方、というのが、誰なのか。わたくしは、まだ、はっきりとは、知らない。けれど、いま、一つ、わかった。


 祖母にとって、ヴェッセル家の帳簿は、他人の家の、ただの数字では、なかった。自分が、家政の側から、請け合った家。「必ず返せる」と、名を書いて、信じた家。その家が、二十年、痩せた牛のように搾られていくのを、祖母は、南の空の下で、知らずにいた。


 だから、家政帳に、書き遺した。いつか、読める者へ。この家の帳尻を、合わせに行ける者へ。


 わたくしは、その、読める者として、ここに、来ていた。偶然の縁談で。けれど、祖母の帳面を、抱えて。



「ヒルシュ様」


 わたくしは、顔を、上げた。


「あなたが、当主ではなく、妻に会いたいと、書いてこられたのは。帳面を改めた者に用がある、と。……本当は、それだけでは、なかったのですね」


 老人は、目を、細めた。あの、笑ったのか値踏みしたのかわからない目で。けれど、今日は、確かに、笑っていた。


「商人仲間から、聞きましてな。ヴェッセルの新しい奥方が、古い家政帳を一冊、後生大事に抱えて、屋敷の帳面を、片端から、直しておられる、と。……古い、家政帳。わたくしの店の、いちばん古い頁を、ふと、思い出しましてな。まさか、と思いながら、五日、馬車に、揺られて、まいりました」


 老人は、飴色の帳面を、閉じた。両手で、包むように。


「まさか、では、ございませんでした。あの方のお孫様が、あの方の帳面を持って、この家へ、戻っておいでとは。……三十年、貸し手の帳面の隅で、褪せていくだけだった一つの名が、今日、生きて、動き出しました。金貸し冥利に、尽きまする」



 その夜、わたくしは、月次の締めを、書いた。


 行が、まっすぐに、並んだ。


 食費、安定。

 給金、据え置き。

 納入、両商会とも、入用どおり。

 返済——再設計により、月々、軽く。余分の分、差し引き済み。

 支出、燭台は、十八座のまま。


 燭台の座は、今月も、増やさなかった。あと六座。それは、屋敷の外の帳尻が、本当に合いきる日まで、取っておく。まだ、湖の水は、抜けていない。七日の木箱は、道を変えて、動いている。三冊目の帳簿も、西棟の証文も、闇の中だ。


 けれど、返済の一行が、今月、初めて、まっすぐに、立った。二十年、この家の返済は、細い欄をぐるりと回った、いびつな一行。それが、今夜、まっすぐに、なった。


 残りは、二年と、八月。


 わたくしは、家政帳に、今日の行を、書いた。


『百九日目。ヒルシュ様、返済再設計の証文を遺し、王都へ発たれる。商会の最も古き頁に、お祖母様の署名。家政の保証人として。……お祖母様。この家の帳尻、いま、合わせております』



 翌朝、老人は、王都へ、発った。


 来たときと同じ、身軽な馬車で。二十年分の帳簿は、置いていかなかった。ただ、返済再設計の証文一枚を、この家に、遺して。


 見送りの玄関で、老人は、最後に、わたくしを、見た。


「奥様。フックスは、王都の、わたくしの店の近くに、おりまする。……二十年前、この門を、帳簿を抱えて出て行った男が。会いに、行かれるなら、道を、指しておきましょう」


 それから、少しだけ、声を、落とした。


「もう一つ。……いつか、お尋ねになるとよい。お祖母様が、なぜ、この家を、去られたのかを。あれほど、家政の側から、この家を請け合った御方が。——それは、わたくしの帳面には、書いてございませんでな」


 老人の馬車が、北の街道を、王都の方へ、去っていった。



 その日の、夕刻だった。


 門で、ヴィムさんの声が、した。それから、銀盆に、一枚の名刺を載せて、ヴィムさんが、参られた。


 いつもの、書状ではなかった。名刺だった。上等な、けれど、どこか、成金じみた、飾りの多い名刺。


「奥様。……ご来訪の、御予告でございます」


 ヴィムさんの声が、いつもより、硬かった。五十年、この門を見てきた人の、身構えた声だった。


 わたくしは、その名刺を、取った。


 書いてある名を、読んだ。


 ——分家。オスカー・フォン・ヴェッセル。先代の、弟。


 お読みいただき、ありがとうございます。


 これにて第四章「債権者の、お茶会」、締めでございます。


 屋敷の外へ、一歩、踏み出しました。貸し手の帳面が、三十年前の祖母の署名を、照らし出しました。返済は、まっすぐになり、王都には、会うべき生き証人が、待っております。


 そして第五章は、分家の叔父オスカーの来訪から。——先代の書斎の、あの「紛失した鍵」は、いったい、誰の手に。


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