第47話:古い、貸付台帳
老人が開いたのは、飴色の帳面の、いちばん端の頁だった。
紙が、ほかの頁より、茶色い。角が、丸く、擦り切れている。インクが、褪せて、薄紫に近い色に、なっている。ずいぶん昔に書かれて、それきり、めったに開かれなかった頁だった。
老人は、その頁を開くとき、ほかの頁より、ずっと、ゆっくりと、指を動かした。乾いた紙が、めくれるたびに、かさ、と、古い音を立てた。何十年も閉じられていた紙の匂いが、ひとつ、立ちのぼる。埃と、古いインクと、ほんの少しの黴の匂い。時間そのものの、匂いだった。
「奥様。わたくしは、この御家に、三十年、金を貸してきたと、申しました。……けれど、この帳面は、六十年ものでございます。わたくしが、店を継ぐ、前から。父の代から」
「先代の、そのまた前」
「さよう。先々代の、御代でございます」
先々代。
いまの伯爵の、祖父。そして、レナート様の、祖母にあたる、奥様のいた頃。
「その頃のヴェッセル家は、いまとは、まるで、逆でございました。借金など、ほとんど、ない。金を借りに来られるのは、たまさか、屋根の葺き替えだの、婚礼の支度だの、めでたい入用のときだけ。……この頁は、その、めでたい方の借りでございます」
老人の指が、褪せた文字を、たどった。
わたくしは、身を、乗り出して、読んだ。数字は、書きすぎない。合うか、合わぬか。ここには、合わぬ数字は、なかった。きちんと借りて、きちんと返された、古い、健やかな一行だった。
こういう一行を、わたくしは、知っている。祖母の家政帳の、いちばん古い頁も、こんな顔をしていた。借りて、返して、また借りて、返す。息をするように、金が、家をめぐっていた頃の、健やかな数字の、顔を。
「金貸しは、大きな借りには、保証人を、立てさせまする」
老人は、言った。
「返せなんだときに、代わりに、面倒を見る者。……たいていは、御親類か、御友人。けれど、この御家は、少し、変わっておりました。ヴェッセル家は、大きな借りのたびに、保証人の欄に、いつも、同じ者の名を、書かせました」
「同じ、者」
「御親類では、ございませぬ。……御家の、家政を、束ねておった者でございます。奥向きの、いちばん奥。台所から、蝋燭の数まで、この家の内証を、いちばんよく知る者。『この家は、借りた分を、必ず、家政の遣り繰りで、返せます』——そう、家政の側から、請け合う者を、保証人に、立てておったのでございます」
家政を、束ねる者が、家の借りを、保証する。
その考えが、わたくしの胸を、打った。
この家は、昔、家政というものを、それほどに、信じていた。台所と蝋燭の遣り繰りが、家の借りを、支えられる。そう、信じていた家だった。いまの、幽霊使用人と水増しの家に、なる、ずっと前は。
「この、いちばん古い借りの、保証人の欄」
老人の指が、頁の、下の隅で、止まった。
「侍女頭の署名が、ございます。この御家の、家政のいちばん奥を、束ねておった御方の。……奥様。あなたは、この字に、見覚えが、ございませんか」
わたくしは、その署名を、見た。
褪せた、薄紫のインク。けれど、筆の癖は、はっきりと、残っていた。
名の、最初の一画を、少し、強く、入れる癖。終いの字を、払わずに、すっと、止める癖。その、小さな、二つの癖を、わたくしは、知っていた。
知っている、どころでは、なかった。指先が、冷えた。
毎晩、開いている。嫁入り荷物の底から、持ってきた。この三月、何十回と、めくった。あの、家政帳の——「家政は、戦でございます」と書き出された、あの一冊と。
同じ、手だった。
お読みいただき、ありがとうございます。
この家は、昔、家政というものを、心から、信じておりました。
次話「保証人の、署名」——第四章、締めの一話でございます。
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