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三年で離縁の契約ですが、まずこの家の帳簿を直させていただきます 〜お飾り妻の、静かな家政立て直し〜  作者: 銀月ソフィ


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第44話:前の、管財人

 フックス。


 その名を、わたくしは、二十年前の門で、一度、聞いていた。正しくは、ヴィムさんの口から、聞いていた。


 わたくしは、門番小屋へ、足を運んだ。


 ヴィムさんは、御歳七十近い。この家の門を、五十年、守ってきた。門の出入りの控えは、五十年分、頭の中にある。誰が、いつ、どんな顔で、この門を出入りしたか。ヴィムさんの門は、屋敷でいちばん古い、帳簿だ。


「フックスさんの、ことでございますか」


 ヴィムさんは、湯呑みを、両手で包んで、しばらく、黙った。


「……手前が、忘れられぬ出方を、した御方でございます」


「出方、と言いますと」


「二十年前の、冬の晩でございました。フックス様は、荷も、ろくにまとめず、夜中に、門へ、来られました。顔が、真っ青で。手には、帳面を、一冊だけ、抱えて」


 帳面を、一冊。


「門を開けろ、と。手前が、こんな夜更けにどちらへ、と伺うと、フックス様は、門の外の闇へ、こう、叫ばれました。屋敷の方を、振り返って」


 ヴィムさんは、目を、閉じた。二十年前の声を、そのまま、なぞるように。


「『帳簿だけは——帳簿だけは、燃やすな』と」


 帳簿だけは、燃やすな。


 わたくしの、背が、冷えた。


「それきり、フックス様は、王都の方へ、歩いて、行かれました。馬車も、待たずに。あの晩から、二十年、あの御方は、この門を、くぐっておられませぬ。……そして、ひと月と経たぬうちに、クラム様が、いらっしゃいました。前の管財人の椅子に、するりと」


 二十年前の、冬。


 フックスが、帳面を抱えて、夜中に逃げるように出て行った。「帳簿だけは、燃やすな」と叫んで。そして、入れ替わりに、ベルトルトが、来た。


 言い争って、辞めた、と、聞いていた。けれど、これは、言い争って辞めた男の、出方ではない。


 これは——逃げた男の、出方だ。何かを見て、何かを恐れて、けれど、大事なものだけは燃やすなと、叫び残して、逃げた男の。



「ヴィムさん。フックスさんは、味方だったのでしょうか。それとも」


「手前には、わかりませぬ」


 ヴィムさんは、正直に、首を、振った。


「ただ、一つだけ。悪事を働いて逃げる者は、『帳簿を、燃やせ』と申しまする。証を、消すために。……フックス様は、逆でございました。『燃やすな』と。証を、残せ、と。あの叫びだけは、手前、二十年、忘れられませぬ」


 燃やせ、ではなく、燃やすな。


 証を消せ、ではなく、証を残せ。


 それは、悪事を隠す者の言葉ではない。悪事を、いつか、暴いてほしい者の言葉だ。フックスは、この家の帳簿の中に、二十年後の誰かへの、伝言を、遺していったのかもしれない。


 先代が、書斎に、いちばん恥ずかしい証文を、燃やさず遺したように。


 祖母が、家政帳に、最後の一枚まで読めと、書き遺したように。


 この家には、二十年、三十年の彼方から、「読め」「残せ」と叫ぶ声が、いくつも、眠っている。



 奥の間へ戻ると、老人が、わたくしの顔を、見た。


「よい門番を、お持ちでございますな」


 わたくしが何を聞いてきたか、この老人は、たぶん、全部、わかっている。


「ヒルシュ様。フックスさんは、いま、どこに」


 老人は、そろばんの珠を、一つ、弾いた。


「王都に、おりまする」


「……ご存知でしたの」


「二軒隣の、そのまた先。小さな写字の店を、出しておりますよ。人の書いた証文を、清書したり、写しを取ったり。……二十年、帳簿から離れられなんだ男の、行き着く先でございます」


 わたくしは、老人を、見た。


 この人は、ドルンの湖も、フックスの居場所も、はじめから、知っていた。知っていて、わたくしに、順に、探させた。自分の口からではなく、わたくしの手で、たどり着かせるように。


「ヒルシュ様。あなたは——最初から、全部、ご存知だったのですね」


 老人は、答えなかった。


 答える代わりに、飴色の帳面を、そっと、閉じた。


「金貸しは、答えを、売りませぬ。……道を、指すだけでございます。歩くのは、いつも、借りた側でございますからな」


 お読みいただき、ありがとうございます。


 「燃やせ」ではなく「燃やすな」。それが、生き証人の、遺した声でございました。


 次話「七日の、木箱」——凍らせたはずの流れが、まだ、動いております。


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