第42話:旦那様の、譲らぬ一線
その日、旦那様は、それきり、書斎の話を、なさらなかった。
突き合わせの作業は、続けてよい、と言われた。ヒルシュ様の控えと、こちらの帳簿を重ねることも、返済の条件を見直すことも。ただ、西棟の書斎だけは、開けない。あの紙には、触れさせない。
一線を、引かれた。
わたくしは、その線を、越えなかった。
越えられる。理屈の上では、越えられる。あの部屋の証文があれば、返済の水増しの、いちばん奥が、わかる。仕事のためには、開けるべきだ。そう、言える。
言える。けれど、言わなかった。
わたくしにも、越えられて、腹の立つ線が、ある。
「どうせお飾りだから」と、仕事を、取り上げられること。侮られるのは、平気だ。けれど、働かせてもらえないのだけは、腹が立つ。あれは、わたくしの、いちばん柔らかいところだ。
旦那様の、書斎の線も、たぶん、同じ場所にある。
誰かの、いちばん柔らかいところを、仕事の理屈で、踏みにじる。それは、帳簿を直すのとは、違う仕事だ。少なくとも、わたくしの祖母の家政帳には、そんな詰め方は、書いていない。
『家政は、戦でございます。ただし、味方の傷を踏んで進む戦は、勝っても、負けでございます』
祖母の、箴言。
わたくしは、その頁を、思い出して、口を、つぐんだ。
旦那様の父上のことを、わたくしは、まだ、何も知らない。放蕩で家を傾けた、と、世間は言う。旦那様は、その汚名を、三年、黙って、背負っておられる。
背負っているものを、無理に下ろさせるのは、手伝いでは、ない。
いつか、この方が、自分から、あの部屋の鍵を、探す気になる日まで。それまでは、待つ。わからないものは、急いで、判断しない。
夜、家政帳に、今日の行を、書いた。
『百三日目。西棟の証文の件、旦那様、開扉を拒まれる。「父が遺した最後のもの」と。突き合わせは続行。書斎には、触れぬこと』
書いてから、少し、迷って、もう一行、足した。
『踏まぬ、と決める。仕事より、遅い道を選ぶ』
仕事より、遅い道。
三月前のわたくしなら、書かなかった行だ。あの頃のわたくしは、いちばん速く数字が合う道を、迷わず、選んでいた。
いつのまにか、速さより、大事にしたいものが、できていた。
……よくない傾向だ、と、また、思う。帳簿付けとしては。
突き合わせの作業は、翌日から、始まった。
場所は、奥の間。ヒルシュ様の飴色の控えと、わたくしの三年分の帳簿を、卓の上に、並べた。旦那様は、返済の実務がある。日中は、執務室に、こもっておられた。
だから、その部屋には、老人と、わたくしと、二人きりだった。
紙をめくる音と、そろばんの珠の音だけが、続いた。老人は、驚くほど、速く、正確に、数字を拾った。六十年の、指だった。
ふと、老人が、珠を止めて、言った。
「奥様。差し出がましいことを、伺っても、よろしいか」
「なんでしょう」
「伯爵様は——前の御婚約の話を、奥様に、なさいましたか」
わたくしの、ペンが、止まった。
前の、御婚約。
「……いいえ」
「さようで、ございますか」
老人は、それきり、また、珠を、弾き始めた。何事もなかったように。
けれど、わたくしの手の中で、ペンは、しばらく、動かなかった。
前の、御婚約。
旦那様には、前に、婚約者が、いた。それが、どうなったのか、わたくしは、知らない。義妹のコルネリア様が、いつか、言っていた。「兄様に期待しないで。あの人は、誰にも期待しないの」と。
誰にも、期待しない。何も、期待しない。
その言葉の根が、母上の死と、契約の三条にあることは、旦那様の口から、一度だけ、聞いた。けれど、前の婚約者のことは、聞いていない。
この老人は、それを、知っている。三十年、この家に金を貸してきた、貸し手の帳面の、いちばん外側から。
「ヒルシュ様。その、前の御婚約というのは」
「——おっと」
老人は、珠を、ぱちりと、はじいた。
「ここが、合いませぬな。奥様、この、二年目の秋の一行。もう一度、読んでいただけますか」
話は、そこで、閉じた。
閉じられた、と、言うべきか。
わたくしは、二年目の秋の一行に、目を、戻した。戻しながら、心の隅で、もう一つの帳面を、そっと、開いていた。
旦那様の、まだ知らない過去、という帳面を。
その頁は、白紙だった。白紙のまま、ずっと、閉じてあった。
いま、その頁の、いちばん外側の隅に、老人の落とした一言が、小さく、書き込まれた。
——前の、御婚約。
お読みいただき、ありがとうございます。
旦那様の、まだ知らない一頁が、開きかけました。
次話「両替商の、湖」——金の流れ込む口の名を、追います。
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