第41話:最初の、一枚
わたくしは、老人に、問うた。
「その、最初の一枚。ヒルシュ様の控えには、載っておりませんの」
「わたくしの控えに、載っておりますのは、貸した額と、日付だけ。……証文そのものは、借りた側が、お持ちでございます。金貸しは、貸した証を、相手に、預けるのですよ。奇妙なようでございますが、それが、作法でしてな。証文は、返せと言う側ではなく、返す側が、握っておるものでございます」
返す側が、握っている。
ならば、この家の、どこかに、ある。二十年前の、最初の証文が。
「その一枚が、なぜ、そんなに、大事なのですか」
老人は、指を、一本、立てた。
「借金というものは、雪玉でございます。最初の一玉は、握りこぶしほど。ところが、坂を転がるうちに、利が利を生み、遅れが咎めを呼び、いつのまにか、家ほどの大きさに、なりまする。……いま、ヴェッセル家が返しておられる借金の額は、その、転がりきった雪玉の大きさ。けれど、いちばん最初の一玉が、どれほどの大きさだったか。それを知る者は、もう、おりませぬ」
「証文が、それを」
「最初の一枚には、いちばん最初の額が、書いてございます。それと、いまの残高を、突き合わせれば——二十年で、雪玉が、まっとうに転がって大きくなったのか。それとも、途中で、誰かが、雪を、こっそり、握り足したのか。それが、はっきりと、いたしまする」
誰かが、雪を、握り足す。
それは、返済に紛れ込ませた「回ってくる金」の、逆だ。返させる方でも、細工。借りの元でも、細工。入りも、出も、両側から、この家は、二十年、削られていた。
最初の一枚があれば、その削りの、いちばん奥の、始まりの点が、わかる。
「その一枚が、西棟の書斎に、あると」
わたくしが言うと、老人は、初めて、少し、驚いた顔を、した。
「……ご存知でしたか。あの、閉ざされた部屋を」
「鍵が、紛失、ということに、なっておりますの。先代様が、亡くなった晩まで、灯りを点けておられた部屋だと」
「さようで」
老人は、目を、伏せた。
「わたくしは、先代様の御代に、一度だけ、あの部屋へ、通されたことが、ございます。金の相談で。……あの晩、先代様は、いちばん古い証文を、あの部屋の、どこかに、しまわれた。『これは、家の恥だ。だが、燃やすわけには、いかん。いつか、誰かが、これを読んで、帳尻を合わせねばならん日が、来る』と。そう、仰って」
いつか、誰かが、これを読んで、帳尻を合わせる。
わたくしの、背が、粟立った。
それは、祖母の言葉と、同じ形をしていた。最後の一枚まで、読みなさい。祖母の家政帳の、あの遺言と。
この家の先代も、わたくしの祖母も、二十年、三十年の彼方から、同じことを、書き遺していた。——いつか、読める者が、来る。それまで、この紙を、燃やさずに、置いておく。
「先代様は、あの部屋に、家のいちばん恥ずかしい紙を、遺されました。恥ずかしいから、鍵をかけた。けれど、燃やさなかった。……鍵をかけて燃やさぬ、というのは、奥様。始末したのではなく、託したのでございますよ。読める者に」
わたくしは、旦那様を、見た。
この方の、父上が。
いつか読める者が来ることを信じて、恥ずかしい紙を、燃やさずに、鍵の向こうに、遺した。
鍵は、紛失。誰かが、隠した。読ませないために。
——なら、その鍵を、探し出して。
わたくしが、口を、開きかけた、そのときだった。
「よせ」
旦那様の声が、した。
低い、聞いたことのない、硬い声だった。
「あの部屋は、開けない」
わたくしは、旦那様を、見た。旦那様は、老人ではなく、卓の一点を、見つめておられた。顔から、血の気が、引いていた。
「ヒルシュ殿。条件の見直しは、ありがたい。突き合わせも、進めてくれ。……だが、あの部屋だけは、駄目だ。あそこにあるのは、父が、最後まで、誰にも見せなかったものだ」
「伯爵様」
「あれは——父が、遺した、最後のものだ」
旦那様の指が、卓の上で、握りしめられた。
「触れるな。妻にも、貴殿にも、あの部屋の紙には、触れさせない」
お読みいただき、ありがとうございます。
鍵をかけて燃やさぬのは、始末ではなく、託したのでございます。
次話「旦那様の、譲らぬ一線」——開いた距離は、すぐには、埋まりません。
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