写しで、結構です
翌朝、わたくしは、もう一度、管財人の事務室の扉を叩いた。
扉は、今朝も、間を置かずに開いた。
「これは奥様。昨日の今日で——旦那様のお許しが、もう出ましたかな」
声に、ほんのひとさじ、勝ちの色が混ざっていた。
お許しなど出るはずがない、と知っている方の、余裕の色。
結構なこと。余裕のある方は、足元を見ない。
「いいえ。お許しは、いただきに行っておりませんの」
「……ほう」
「考えましたら、わたくし、帳簿の原本をいただく理由が、ございませんでした」
ベルトルトさんの眉が、安心の形に、緩みかけた。
その途中で、わたくしは、続けた。
「原本は、債権者様への義理がある大切なお品。ですから——写しで、結構です」
「……写し、と仰いますと」
「婚姻契約に、財産目録の写しが添えられておりましたでしょう。わたくし、あれに署名した身でございますから、目録にあるお品の現況を、確かめる義務がございますの。嫁いだ家の財産を知らないままでは、署名が嘘になってしまいますもの」
わたくしは、にこやかに、申し上げた。
「目録と突き合わせるだけの、家政帳の写し。当代の分だけで、結構です。お忙しいでしょうから、お急ぎにならなくて、よろしくてよ。十日のうちに、いただければ」
ベルトルトさんは、三つ数える間、黙った。
昨日の「定め」は、原本を守る壁だった。
昨日の「義理」も、原本を守る壁だった。
写しには、どちらの壁も、かからない。
そして、署名した目録の確認を妨げれば、それは管財人が、当主夫妻の署名を軽んじたことになる。軽んじてよい署名なら、この家の契約は、全部、紙屑になる。借財のある家が、いちばん言われてはならないことだ。
断る理由を、頭の中の綴りから、一枚ずつ探して、見つからない。
その三つ数える間が、この方の、今朝の敗けだった。
「……かしこまりました。写しを、お作りいたしましょう」
「ありがとう存じます」
お辞儀の角度は、完璧なままだった。
ただ、扉の閉まる音が、昨日より、ほんのわずか、早かった。
お祖母様の家政帳、二十三頁目。
『扉が閉まっているときは、扉ごと押してはなりません。蝶番の側から、お入りなさい』
蝶番の側から、入らせていただいた。
写しは、五日目に、届いた。
紐で綴じた、厚い束だった。
几帳面な字で、最初から最後まで、整然と書き写されていた。
急いで作った写しは、行の高さが暴れる。この写しの行は、定規で引いたように、揃っていた。
五日で、この厚さを、この丁寧さで。
几帳面さは、本物だ。それは、認めて差し上げないといけない。
わたくしは、三晩かけて、財産目録と、仕入れの控えと、写しとを、突き合わせた。
夜の部屋に、紙をめくる音だけがする。
蝋燭が、三晩で、四本減った。
燭台の数を誤魔化す家で、蝋燭を四本使って、蝋燭の数字を調べている。なんだか、おかしな話だ。
数字は、合っていた。
恐ろしいほど、合っていた。
卵、週に百二十。
蝋燭、月に三百。
葡萄酒、月に樽二つ。
屋敷の人数は、先代の頃の半分以下だというのに、仕入れの数字だけが、先代の頃のまま、まっすぐに続いている。
倹約家の旦那様が、ご自分の卵を二つに減らしている家で。
人が減れば、卵も減る。減らない数字は、誰かが、減らさずにいてくれと、頼んでいる数字だ。
数字は、嘘をつくときに、揃いすぎる。
これだけ揃っていれば、もう、確信してよい。
そして、もう一つ。
写しの筆跡が、途中で、一度、変わっていた。
最初の三分の一は、撥ねの強い、若い字。
行の終わりで、わずかに右に流れる、急ぎ癖のある字。
残りは、ベルトルトさんの、あの几帳面な字。
写し仕事を、誰かに手伝わせて、途中で、取り上げたのだ。
——なぜ、取り上げたのかしら。
手伝いに任せてよい頁と、任せられない頁が、あったということ。
境目は、当代二年目の、春のあたり。
その春に、何があったのかは、まだ、わからない。
わからないものの場所には、付箋を、挟んでおく。
「奥様ー、お茶のお代わり、お持ちしましたー」
扉から、ミーナさんが、盆を持って入ってきた。
今週から、わたくし付きになってもらった。本人は「お世話係に大出世です」と、廊下まで聞こえる声で喜んでいた。
お茶の淹れ方は、まだ、危なっかしい。お喋りの注ぎ方は、誰よりも、なめらかだ。
「ミーナさん。一つ、伺っても」
「なんなりと!」
「事務室のお仕事を、お手伝いする方は、いらして?」
「ああ、ハンスですね。クラム様の甥っ子で、半年前から写字のお手伝いに。……あ、でも先月、お屋敷を辞めちゃったんですよ。急に、王都へ行くって」
「……そう。急に」
「あたし、見ちゃったんですけど。辞める前の晩、ハンスってば、事務室の前で、すっごく怒られてたんですよねえ。クラム様、声は荒らげない方なんですけど、ああいうときの方が、こわいっていうか……あ、これ、内緒ですよ?」
ミーナさんは、悪気なく、とても大切なことを仰る。
内緒の振り方まで、気前がいい。
若い字の主は、叱られて、王都へ行った。
叱られた理由を、わたくしは、まだ知らない。
ただ、写しの中の、あの急ぎ癖の撥ねが、妙に、目に残った。
わたくしは、家政帳に、一行、書き足した。
『七日目。写しの筆跡、二種。若い方は王都へ』
筆跡は、人より、正直だ。
人は口を閉じられるけれど、字は、書いた分だけ、残ってしまうから。
お読みいただき、ありがとうございます。
蝶番の側から入る奥様でした。
次話「義妹様の、お茶」——お屋敷には、十六歳の義妹様がいらっしゃいます。
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