第4話:写しで、結構です
翌朝、わたくしはもう一度、管財人の事務室の扉を叩いた。扉は今朝も、間を置かずに開いた。
「これは奥様。昨日の今日で——旦那様のお許しが、もう出ましたかな」
声にほんのひとさじ、勝ちの色が混ざっていた。お許しなど出るはずがない、と知っている方の余裕の色。結構なこと。余裕のある方は、足元を見ない。
「いいえ。お許しは、いただきに行っておりませんの」
「……ほう」
「考えましたら、わたくし、帳簿の原本をいただく理由が、ございませんでした」
ベルトルトさんの眉が安心の形に緩みかけた。その途中で、わたくしは続けた。
「原本は、債権者様への義理がある大切なお品。ですから——写しで、結構です」
「……写し、と仰いますと」
「婚姻契約に、財産目録の写しが添えられておりましたでしょう。わたくし、あれに署名した身でございますから、目録にあるお品の現況を、確かめる義務がございますの。嫁いだ家の財産を知らないままでは、署名が嘘になってしまいますもの」
わたくしは、にこやかに申し上げた。
「目録と突き合わせるだけの、家政帳の写し。当代の分だけで、結構です。お忙しいでしょうから、お急ぎにならなくて、よろしくてよ。十日のうちに、いただければ」
ベルトルトさんは、三つ数える間、黙った。
昨日の「定め」は原本を守る壁だった。昨日の「義理」も原本を守る壁だった。写しには、どちらの壁もかからない。
そして、署名した目録の確認を妨げれば、それは管財人が当主夫妻の署名を軽んじたことになる。軽んじてよい署名なら、この家の契約は全部、紙屑になる。借財のある家が、いちばん言われてはならないことだ。
断る理由を頭の中の綴りから一枚ずつ探して、見つからない。その三つ数える間が、この方の今朝の敗けだった。
「……かしこまりました。写しを、お作りいたしましょう」
「ありがとう存じます」
お辞儀の角度は完璧なままだった。ただ、扉の閉まる音が昨日よりほんのわずか、早かった。
お祖母様の家政帳、二十三頁目。
『扉が閉まっているときは、扉ごと押してはなりません。蝶番の側から、お入りなさい』
蝶番の側から、入らせていただいた。
写しは五日目に届いた。
紐で綴じた、厚い束だった。几帳面な字で、最初から最後まで整然と書き写されていた。急いで作った写しは、行の高さが暴れる。この写しの行は、定規で引いたように揃っていた。
五日でこの厚さを、この丁寧さで。几帳面さは本物だ。それは、認めて差し上げないといけない。
わたくしは三晩かけて、財産目録と、仕入れの控えと、写しとを突き合わせた。
夜の部屋に紙をめくる音だけがする。蝋燭が三晩で四本減った。燭台の数を誤魔化す家で蝋燭を四本使って、蝋燭の数字を調べている。なんだか、おかしな話だ。
数字は、合っていた。恐ろしいほど、合っていた。
卵、週に百二十。
蝋燭、月に三百。
葡萄酒、月に樽二つ。
屋敷の人数は先代の頃の半分以下だというのに、仕入れの数字だけが先代の頃のまま、まっすぐに続いている。倹約家の旦那様が、ご自分の卵を二つに減らしている家で。
人が減れば、卵も減る。減らない数字は、誰かが減らさずにいてくれと頼んでいる数字だ。
数字は、嘘をつくときに、揃いすぎる。
これだけ揃っていれば、もう確信してよい。そして、もう一つ。
写しの筆跡が、途中で一度変わっていた。最初の三分の一は撥ねの強い若い字。行の終わりでわずかに右に流れる、急ぎ癖のある字。残りは、ベルトルトさんのあの几帳面な字。写し仕事を誰かに手伝わせて、途中で取り上げたのだ。
——なぜ、取り上げたのかしら。
手伝いに任せてよい頁と、任せられない頁があったということ。境目は、当代二年目の春のあたり。その春に何があったのかは、まだわからない。わからないものの場所には、付箋を挟んでおく。
「奥様ー、お茶のお代わり、お持ちしましたー」
扉から、ミーナさんが盆を持って入ってきた。今週から、わたくし付きになってもらった。本人は「お世話係に大出世です」と、廊下まで聞こえる声で喜んでいた。
お茶の淹れ方は、まだ危なっかしい。お喋りの注ぎ方は、誰よりもなめらかだ。
「ミーナさん。一つ、伺っても」
「なんなりと!」
「事務室のお仕事をお手伝いする方は、いらして?」
「ああ、ハンスですね。クラム様の甥っ子で、半年前から写字のお手伝いに。……あ、でも先月、お屋敷を辞めちゃったんですよ。急に王都へ行くって」
「……そう。急に」
「あたし、見ちゃったんですけど。辞める前の晩、ハンスってば、事務室の前ですっごく怒られてたんですよねえ。クラム様、声は荒らげない方なんですけど、ああいうときの方が、こわいっていうか……あ、これ、内緒ですよ?」
ミーナさんは悪気なく、とても大切なことを仰る。内緒の振り方まで気前がいい。
若い字の主は叱られて、王都へ行った。叱られた理由を、わたくしはまだ知らない。ただ、写しの中のあの急ぎ癖の撥ねが、妙に目に残った。
わたくしは家政帳に一行、書き足した。
『七日目。写しの筆跡、二種。若い方は王都へ』
筆跡は人より正直だ。人は口を閉じられるけれど、字は書いた分だけ、残ってしまうから。
写しをお願いするときは、綴じ方まで指図してはなりません。綴じるのはお作りになった方で、その方の癖は、いちばん綴じ目に出ますので。
次話「義妹様の、お茶」。お屋敷には、十六歳の義妹様がいらっしゃいます。お茶の席にお出しするものが、いつもお茶とはかぎりません。
蝶番の側から入る奥様に、にやりとなさった方。ブックマークと評価が、次の一頁になります。




