第3話:家政帳を、いただけますか
ヴェッセル家の家政は、管財人が一手に握っている。ミーナさんが廊下の掃除をしながら、教えてくれた。掃除の手は、止まっていた。お喋りと雑巾は両立しない質らしい。
「クラム様っていうんですけど。もう二十年もお屋敷にいて、先代様の頃からぜーんぶ任されてて。あたしたちのお給金も、クラム様の手から出るんです」
「お屋敷の帳簿も、その方が」
「帳簿どころか、鍵も、印も、ぜんぶ。旦那様だって、お金のことはクラム様に聞かないと、わからないって話で」
「皆さん、その方のことをどう思っていらっしゃるの」
「えっ。……ど、どうって、その、立派な方ですよぅ。礼儀正しいし、お給金は遅れたことないし、その……」
ミーナさんの声が、そこで初めて、廊下の長さを気にする小ささになった。
「……ちょっとこわいですけど」
お給金の遅れない礼儀正しいこわい方。……なるほど。ミーナさんは、よく喋る。よく喋る人は、よく見ている人でもある。覚えておくことにした。
管財人の事務室は、一階の東の奥にあった。扉を叩くと、間を置かずに開いた。まるで、わたくしが来ることを、知っていたかのように。
「これは——奥様。ようこそ、お越しくださいました」
ベルトルト・クラムさんは、灰色の髪をきれいに撫でつけた、姿勢のよい方だった。お辞儀の角度に、狂いがない。
お辞儀というものは、深すぎれば卑屈に、浅すぎれば不遜になる。この方のお辞儀は、その間のいちばん安全な一点に、寸分違わず止まる。二十年、毎日磨いた角度だ。
部屋の中は、事務室というより聖堂に近かった。机の上に紙の山。ただし、一枚もはみ出ていない。
壁の棚の綴りは背の高さまで揃えて並び、ペン先は皿の上に大きさの順。机の隅に封蝋の道具が一式あって、蝋は朱にわずかに茶の混じる、見慣れない色をしていた。
「ご挨拶が遅れまして。アデーレでございます」
「存じ上げております。ささ、どうぞ、お掛けくださいませ。お茶など——」
「お構いなく。今日は、お願いがあって参りました」
わたくしは、座らずに申し上げた。座ると、お話が長くなる。長いお話は、断る側に有利にできている。
「家政帳をいただけますか。当代の分で、結構ですので」
ベルトルトさんの笑顔は、動かなかった。一瞬も、揺れなかった。
奥方が嫁いで三日目に帳簿を求めに来る——それはこの家では、天井から鯉が降ってくるくらいには、珍しいことのはずだ。珍しいことを聞いた顔を、この方はしなかった。揺れない方が、かえって雄弁なこともある。
「これはこれは……奥様おん自ら、帳簿などという無粋なものを」
「家政は、妻の領分と伺っておりますので」
「ごもっとも。ごもっともでございます。ただ——」
彼は、申し訳なさそうに眉を下げた。眉の下げ方にも、狂いがなかった。
「当家の帳簿は、代々、当主様のお許しなくお出しできない定めでございまして。何分、借財のある家でございますから、紙一枚にも、債権者様への義理がございます。それに、数字ばかりの埃っぽい綴りなど、お若い奥様のお目を汚すだけのもの。奥様のお手を、このようなことで煩わせては、わたくしが先代様に叱られます」
完璧なお断りだった。定めと、義理と、忠義。三枚重ねの布団のような。あたたかくて、重くて、出られない。
「……定めでしたら、仕方ありませんわね」
「恐れ入ります」
「では、旦那様のお許しをいただいて、出直します」
「それが、よろしゅうございますとも」
ベルトルトさんは、にこやかに扉まで送ってくださった。扉が閉まる最後の一瞬まで、お辞儀の角度は完璧だった。
廊下を戻りながら、考えた。あの方は、お許しが出ないと踏んでいらっしゃる。
嫁いで三日の契約の妻。期待しないと言い渡された妻。その妻のために、当主が家令の二十年に手を入れるとは、思っていらっしゃらない。
その読みは、たぶん正しい。正しい読みを正面から崩すのは、下手な手だ。
夜。わたくしは部屋で、お祖母様の家政帳を最初の頁から、読み返した。
『家政は、戦でございます。ただし、勝ち鬨を上げた者から、負けてまいります』
頁をめくる。献立の控え。給金の相場。蝋燭の保ちの良し悪し。冬の薪の積み方。その間にぽつり、ぽつりと箴言が挟まる。
子供の頃、お祖母様が帳面を付ける姿を、机の脇からよく眺めていた。お祖母様のペンは速くなかった。ただ、一度も止まらなかった。
迷いながら速く書く人と、迷わずゆっくり書く人なら、帳面はあとの方を信じる——そう教わったのは、十の歳だったと思う。
そして、十七頁目に、その一行はあった。
『帳簿を見せない家令は、二種類しかおりません。忠義者か、泥棒でございます』
わたくしは、その頁にしおりの紐を置いた。
ベルトルト・クラムさんが、どちらなのかは、まだわからない。わからないものは、急いで判断しない。
ただし——忠義者は、ふつう「定め」を三枚も重ねない。お断りの理由は、一つで足りるのだ。本当の理由なら。二枚目からは、布団ではなく、壁になる。
明日、旦那様にお許しをいただきに行こう。いいえ。
わたくしは、家政帳の白い頁にペンを走らせた。
『三日目。家政帳、閲覧お断り。理由、三枚』
お許しをいただきに行くのは、やめにした。お許しを願えば旦那様のお手を煩わせ、断られれば、それきりになる。もっと断りにくいお願いの仕方が、あるはずだから。壁に扉がないのなら、蝶番のある側を探せばいい。
お断りの理由は、一つで足ります。三つ並べる方は、たいてい、一つ目をご自分でも信じておられません。
次話、奥様は原本を諦めます。——写しで、結構ですので。
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