家政帳を、いただけますか
ヴェッセル家の家政は、管財人が一手に握っている。
ミーナさんが、廊下の掃除をしながら、教えてくれた。
掃除の手は、止まっていた。お喋りと雑巾は、両立しない質らしい。
「クラム様っていうんですけど。もう二十年もお屋敷にいて、先代様の頃からぜーんぶ任されてて。あたしたちのお給金も、クラム様の手から出るんです」
「お屋敷の帳簿も、その方が」
「帳簿どころか、鍵も、印も、ぜんぶ。旦那様だって、お金のことはクラム様に聞かないと、わからないって話で」
「皆さん、その方のことを、どう思っていらっしゃるの」
「えっ。……ど、どうって、その、立派な方ですよぅ。礼儀正しいし、お給金は遅れたことないし、その……」
ミーナさんの声が、そこで初めて、廊下の長さを気にする小ささになった。
「……ちょっと、こわい、ですけど」
お給金の遅れない、礼儀正しい、こわい方。
……なるほど。
ミーナさんは、よく喋る。
よく喋る人は、よく見ている人でもある。覚えておくことにした。
管財人の事務室は、一階の東の奥にあった。
扉を叩くと、間を置かずに、開いた。
まるで、わたくしが来ることを、知っていたかのように。
「これは——奥様。ようこそ、お越しくださいました」
ベルトルト・クラムさんは、灰色の髪をきれいに撫でつけた、姿勢のよい方だった。
お辞儀の角度に、狂いがない。
お辞儀というものは、深すぎれば卑屈に、浅すぎれば不遜になる。この方のお辞儀は、その間の、いちばん安全な一点に、寸分違わず止まる。
二十年、毎日磨いた角度だ。
部屋の中は、事務室というより、聖堂に近かった。
机の上に、紙の山。ただし、一枚も、はみ出ていない。
壁の棚の綴りは、背の高さまで揃えて並び、ペン先は皿の上に大きさの順。
机の隅に、封蝋の道具が一式。蝋は、朱に、わずかに茶の混じる、見慣れない色をしていた。
「ご挨拶が遅れまして。アデーレでございます」
「存じ上げております。ささ、どうぞ、お掛けくださいませ。お茶など——」
「お構いなく。今日は、お願いがあって参りました」
わたくしは、座らずに、申し上げた。
座ると、お話が長くなる。長いお話は、断る側に有利にできている。
「家政帳を、いただけますか。当代の分で、結構ですので」
ベルトルトさんの笑顔は、動かなかった。
一瞬も、揺れなかった。
奥方が嫁いで三日目に帳簿を求めに来る——それは、この家では、天井から鯉が降ってくるくらいには、珍しいことのはずだ。
珍しいことを聞いた顔を、この方は、しなかった。
揺れない方が、かえって、雄弁なこともある。
「これはこれは……奥様おん自ら、帳簿などという無粋なものを」
「家政は、妻の領分と伺っておりますので」
「ごもっとも。ごもっともでございます。ただ——」
彼は、申し訳なさそうに、眉を下げた。
眉の下げ方にも、狂いがなかった。
「当家の帳簿は、代々、当主様のお許しなくお出しできない定めでございまして。何分、借財のある家でございますから、紙一枚にも、債権者様への義理がございます。それに、数字ばかりの埃っぽい綴りなど、お若い奥様のお目を汚すだけのもの。奥様のお手を、このようなことで煩わせては、わたくしが先代様に叱られます」
完璧な、お断りだった。
定めと、義理と、忠義。三枚重ねの、布団のような。
あたたかくて、重くて、出られない。
「……定めでしたら、仕方ありませんわね」
「恐れ入ります」
「では、旦那様のお許しをいただいて、出直します」
「それが、よろしゅうございますとも」
ベルトルトさんは、にこやかに、扉まで送ってくださった。
扉が閉まる、最後の一瞬まで、お辞儀の角度は、完璧だった。
廊下を戻りながら、考えた。
あの方は、お許しが出ないと、踏んでいらっしゃる。
嫁いで三日の、契約の妻。期待しないと言い渡された妻。その妻のために、当主が家令の二十年に手を入れるとは、思っていらっしゃらない。
その読みは、たぶん、正しい。
正しい読みを、正面から崩すのは、下手な手だ。
夜。
わたくしは、部屋で、お祖母様の家政帳を、最初の頁から、読み返した。
『家政は、戦でございます。ただし、勝ち鬨を上げた者から、負けてまいります』
頁を、めくる。
献立の控え。給金の相場。蝋燭の保ちの良し悪し。冬の薪の積み方。
その間に、ぽつり、ぽつりと、箴言が挟まる。
子供の頃、お祖母様が帳面を付ける姿を、机の脇から、よく眺めていた。
お祖母様のペンは、速くなかった。ただ、一度も、止まらなかった。
迷いながら速く書く人と、迷わずゆっくり書く人なら、帳面は、あとの方を信じる——そう教わったのは、十の歳だったと思う。
そして、十七頁目に、その一行は、あった。
『帳簿を見せない家令は、二種類しかおりません。忠義者か、泥棒でございます』
わたくしは、その頁に、しおりの紐を、置いた。
ベルトルト・クラムさんが、どちらなのかは、まだ、わからない。
わからないものは、急いで判断しない。
ただし——忠義者は、ふつう、「定め」を三枚も重ねない。
お断りの理由は、一つで足りるのだ。本当の理由なら。
二枚目からは、布団ではなく、壁になる。
明日、旦那様に、お許しをいただきに行こう。
いいえ。
わたくしは、家政帳の白い頁に、ペンを走らせた。
『三日目。家政帳、閲覧お断り。理由、三枚』
お許しを、いただきに行くのは、やめにした。
お許しを願えば、旦那様のお手を煩わせ、断られれば、それきりになる。
もっと、断りにくいお願いの仕方が、あるはずだから。
壁に扉がないのなら、蝶番のある側を、探せばいい。
お読みいただき、ありがとうございます。
管財人どの、お辞儀の角度だけは満点でございます。
次話「写しで、結構です」——奥様の、最初の一手です。
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