表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三年で離縁の契約ですが、まずこの家の帳簿を直させていただきます 〜お飾り妻の、静かな家政立て直し〜  作者: 銀月ソフィ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/22

家政帳を、いただけますか

 ヴェッセル家の家政は、管財人が一手に握っている。

 ミーナさんが、廊下の掃除をしながら、教えてくれた。

 掃除の手は、止まっていた。お喋りと雑巾は、両立しない質らしい。


「クラム様っていうんですけど。もう二十年もお屋敷にいて、先代様の頃からぜーんぶ任されてて。あたしたちのお給金も、クラム様の手から出るんです」


「お屋敷の帳簿も、その方が」


「帳簿どころか、鍵も、印も、ぜんぶ。旦那様だって、お金のことはクラム様に聞かないと、わからないって話で」


「皆さん、その方のことを、どう思っていらっしゃるの」


「えっ。……ど、どうって、その、立派な方ですよぅ。礼儀正しいし、お給金は遅れたことないし、その……」


 ミーナさんの声が、そこで初めて、廊下の長さを気にする小ささになった。


「……ちょっと、こわい、ですけど」


 お給金の遅れない、礼儀正しい、こわい方。

 ……なるほど。

 ミーナさんは、よく喋る。

 よく喋る人は、よく見ている人でもある。覚えておくことにした。



 管財人の事務室は、一階の東の奥にあった。


 扉を叩くと、間を置かずに、開いた。

 まるで、わたくしが来ることを、知っていたかのように。


「これは——奥様。ようこそ、お越しくださいました」


 ベルトルト・クラムさんは、灰色の髪をきれいに撫でつけた、姿勢のよい方だった。

 お辞儀の角度に、狂いがない。

 お辞儀というものは、深すぎれば卑屈に、浅すぎれば不遜になる。この方のお辞儀は、その間の、いちばん安全な一点に、寸分違わず止まる。

 二十年、毎日磨いた角度だ。


 部屋の中は、事務室というより、聖堂に近かった。

 机の上に、紙の山。ただし、一枚も、はみ出ていない。

 壁の棚の綴りは、背の高さまで揃えて並び、ペン先は皿の上に大きさの順。

 机の隅に、封蝋の道具が一式。蝋は、朱に、わずかに茶の混じる、見慣れない色をしていた。


「ご挨拶が遅れまして。アデーレでございます」


「存じ上げております。ささ、どうぞ、お掛けくださいませ。お茶など——」


「お構いなく。今日は、お願いがあって参りました」


 わたくしは、座らずに、申し上げた。

 座ると、お話が長くなる。長いお話は、断る側に有利にできている。


「家政帳を、いただけますか。当代の分で、結構ですので」


 ベルトルトさんの笑顔は、動かなかった。

 一瞬も、揺れなかった。

 奥方が嫁いで三日目に帳簿を求めに来る——それは、この家では、天井から鯉が降ってくるくらいには、珍しいことのはずだ。

 珍しいことを聞いた顔を、この方は、しなかった。

 揺れない方が、かえって、雄弁なこともある。


「これはこれは……奥様おん自ら、帳簿などという無粋なものを」


「家政は、妻の領分と伺っておりますので」


「ごもっとも。ごもっともでございます。ただ——」


 彼は、申し訳なさそうに、眉を下げた。

 眉の下げ方にも、狂いがなかった。


「当家の帳簿は、代々、当主様のお許しなくお出しできない定めでございまして。何分、借財のある家でございますから、紙一枚にも、債権者様への義理がございます。それに、数字ばかりの埃っぽい綴りなど、お若い奥様のお目を汚すだけのもの。奥様のお手を、このようなことで煩わせては、わたくしが先代様に叱られます」


 完璧な、お断りだった。

 定めと、義理と、忠義。三枚重ねの、布団のような。

 あたたかくて、重くて、出られない。


「……定めでしたら、仕方ありませんわね」


「恐れ入ります」


「では、旦那様のお許しをいただいて、出直します」


「それが、よろしゅうございますとも」


 ベルトルトさんは、にこやかに、扉まで送ってくださった。

 扉が閉まる、最後の一瞬まで、お辞儀の角度は、完璧だった。


 廊下を戻りながら、考えた。

 あの方は、お許しが出ないと、踏んでいらっしゃる。

 嫁いで三日の、契約の妻。期待しないと言い渡された妻。その妻のために、当主が家令の二十年に手を入れるとは、思っていらっしゃらない。

 その読みは、たぶん、正しい。

 正しい読みを、正面から崩すのは、下手な手だ。



 夜。

 わたくしは、部屋で、お祖母様の家政帳を、最初の頁から、読み返した。


『家政は、戦でございます。ただし、勝ち鬨を上げた者から、負けてまいります』


 頁を、めくる。

 献立の控え。給金の相場。蝋燭の保ちの良し悪し。冬の薪の積み方。

 その間に、ぽつり、ぽつりと、箴言が挟まる。


 子供の頃、お祖母様が帳面を付ける姿を、机の脇から、よく眺めていた。

 お祖母様のペンは、速くなかった。ただ、一度も、止まらなかった。

 迷いながら速く書く人と、迷わずゆっくり書く人なら、帳面は、あとの方を信じる——そう教わったのは、十の歳だったと思う。


 そして、十七頁目に、その一行は、あった。


『帳簿を見せない家令は、二種類しかおりません。忠義者か、泥棒でございます』


 わたくしは、その頁に、しおりの紐を、置いた。


 ベルトルト・クラムさんが、どちらなのかは、まだ、わからない。

 わからないものは、急いで判断しない。


 ただし——忠義者は、ふつう、「定め」を三枚も重ねない。

 お断りの理由は、一つで足りるのだ。本当の理由なら。

 二枚目からは、布団ではなく、壁になる。


 明日、旦那様に、お許しをいただきに行こう。

 いいえ。


 わたくしは、家政帳の白い頁に、ペンを走らせた。


『三日目。家政帳、閲覧お断り。理由、三枚』


 お許しを、いただきに行くのは、やめにした。

 お許しを願えば、旦那様のお手を煩わせ、断られれば、それきりになる。

 もっと、断りにくいお願いの仕方が、あるはずだから。

 壁に扉がないのなら、蝶番のある側を、探せばいい。



 お読みいただき、ありがとうございます。

 管財人どの、お辞儀の角度だけは満点でございます。


 次話「写しで、結構です」——奥様の、最初の一手です。


 ブックマーク・評価をいただけますと、大変励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ