第2話:朝食の、卵の数
ヴェッセル家の朝食は、七時と決まっているそうだ。
わたくしは、六時五十分に、食堂に入った。
新参者は、刻限より先に席に着く。お祖母様の躾の、いちばん最初の方に書いてある作法だ。
食堂は、広すぎた。
二十人は座れる長い食卓に、皿が二人分。
端と、端。
卓の真ん中の広い空白が、この家の今を、そのまま語っていた。
向こうの端に、旦那様が、すでにいらした。
手元に、書類。
皿より先に、紙を読んでいらっしゃる。
「おはようございます、旦那様」
「……ああ」
会話は、それで終わった。
結構。不干渉は、契約の条件のうちだ。
わたくしは、自分の席に着いて、卓上の塩入れの銀の曇りを、見るともなしに見た。
磨かれてはいる。ただ、磨く手が、足りていない。道具は、人手の数を、正直に映す。
給仕の侍女が二人、音もなく皿を置いていく。
年かさの方が、ドーラさん。若い方が、確か、ミーナさん。
昨夜、廊下ですれ違ったときに、名前だけ、覚えた。
ミーナさんの目が、わたくしと旦那様の間を、好奇心いっぱいに三往復したのも、覚えた。
旦那様の皿に、卵が二つ。焼いた腸詰めが二本。
わたくしの皿に、卵が一つ。腸詰めは、なし。
パンは、わたくしの分だけ、端の固いところだった。
——なるほど。これが、この家の「値踏み」というものらしい。
怒る場面ではない。
嫁いで二日目の、お飾りの妻。それも、三年でいなくなると、屋敷中が知っている妻だ。使用人が様子を見るのは、当然のことだ。
ここで皿を睨めば「気位の高い奥様」になり、黙って俯けば「軽んじてよい奥様」になる。
どちらにも、なるつもりはない。
わたくしは、固いパンを、音を立てずに割った。固いパンを綺麗に割る手首の角度なら、習ってある。
そのとき。
「ドーラ」
旦那様が、書類から顔を上げずに、仰った。
「卵は、二つでいい」
「……は。旦那様は、いつも二つで」
「私の話ではない」
それだけだった。
ドーラさんの顔色が、変わった。
厨房へ下がる足が、来たときの倍、速かった。
ほどなく、わたくしの前に、焼きたての卵がもう一つと、白いパンが、湯気ごと、静かに置かれた。
旦那様は、最後まで、こちらをご覧にならなかった。
書類をめくる音だけが、していた。
ただ、頁をめくる間が、さっきまでより、わずかに、長かった。
——何も期待しない、と仰った方は、使用人の皿の上までは、不干渉ではないらしい。
わからないものは、急いで判断しない。
ただし、覚えておくことにした。
帳面に付けるなら、貸し方の頁に。
朝食のあと、わたくしは、厨房へ下りた。
奥方が厨房に入るのは、はしたない、と言う家もある。
けれど、わたくしの領分は「家政」だ。契約書のどこにも、厨房に入るなとは、書いていない。
書いていないことは、してよいことだ。契約とは、そういうものでしょう。
厨房は、広かった。
天井から吊られた銅鍋が、大小、二十あまり。よく磨かれて、底に焦げ癖のあるのは、そのうち五つだけ。
二十の鍋を持つ台所が、五つの鍋で回っている。
そして、火が入っているのは、竈三つのうち、一つだけだった。
「……奥様?」
振り返ったのは、白髪をきっちり結った、背の低いお婆さんだった。
前掛けは継ぎだらけで、ただし、洗い晒しの白さだった。
料理長の、グレーテさん。
「お邪魔いたします。お礼を申し上げに。卵が、おいしゅうございました」
「……それは、ようございました」
グレーテさんは、わたくしの顔を、じっと見た。
値踏みの目とは、少し違った。
何かを、思い出そうとする目に、見えた。
どこかでお会いしたかしら、と思ったけれど、北部に来たのは、生まれて初めてだ。
「卵のことで、一つ、お伺いしても」
「何なりと」
「この厨房には、卵は、週にどれほど届きますか」
「四十でございます。それで、足りております。お屋敷の人数も、減りましたから」
四十。
わたくしは、頭の中で、財産目録に添えられていた仕入れの控えの頁を、開いた。
あの几帳面な字で、卵、週に百二十——確かに、そう読んだ。
読んだ頁は、忘れない。それだけが、取り柄ですもの。
百二十、仕入れて。
四十、届いて。
八十は、どこへ行くのだろう。
鶏は、紙の上でだけ、よく卵を産む。
「……奥様?」
「いえ。結構なお話を、伺いました。——お竈、一つで足りていらっしゃるの?」
「足りて、おりますとも。なに、慣れでございますよ」
慣れ、という言葉で畳まれた苦労の厚みを、わたくしは、畳まれたまま、受け取っておいた。
開くのは、もう少し、親しくなってからでいい。
わたくしは、笑顔で礼を言って、厨房を出た。
廊下を歩きながら、考える。
倹約している家の数字は、小さくなる。
この家の数字は、紙の上だけ、大きい。
昨夜の燭台と、同じ形だ。
二十四と、十二。百二十と、四十。
形の同じ嘘は、同じ手が、ついている。
数字は、嘘をつくときに、揃いすぎる。
そして、この家の嘘は、どうやら、一つではない。
部屋に戻って、お祖母様の家政帳の白い頁に、一行、書き足した。
『二日目。卵、仕入れ百二十、厨房四十。差、八十』
書いてから、ペンを置いて、少しだけ、考えた。
この差を、作っている人がいる。
毎週、八十の卵を、紙の上で割っている誰かが。
その誰かは、わたくしが昨夜ホールで足を止めたことを、まだ、知らない。
まずは、家政帳の原本を、見せていただこう。
話は、それからだ。
お読みいただき、ありがとうございます。
卵八十個の行方を、奥様は追い始めるようです。
次話「家政帳を、いただけますか」——いよいよ、管財人どのの登場です。
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