契約は、三年でございます
「離縁を前提に、嫁いでまいりました」——期待されない妻と、期待しない夫。
三年の契約の初日に、わたくしは玄関ホールの蝋燭の数を、数えてしまったのです。
これは、捨てられる予定の妻が、家を一枚ずつ立て直していくお話です。
どうぞ、お付き合いくださいませ。
持参金は不要。三年での離縁を妨げない。互いの領分に干渉しない。
わたくしが署名した婚姻契約書には、はっきりとそう書いてあった。
世間はこれを「体のいい厄介払い」と呼ぶらしいけれど、わたくしの見立ては違う。
——これは、条件のいいお話ですわ。
アデーレ・フォン・リンデン、二十歳。
リンデン子爵家の、三人姉妹の真ん中。
上の姉ほど美しくなく、下の妹ほど愛らしくない、と言われて育った。
社交の場では、壁の花というより、壁の釘に近い扱いだった。釘は釘で、絵を掛けるのに、要るのだけれど。
代わりに、と言ってよいのかどうか、わたくしには、数字があった。
十二の歳から、実家の家政帳は、わたくしが締めていた。
姉の嫁入り支度の費用も、妹のピアノの月謝も、屋根裏の鼠が齧った小麦の袋の数も、全部、わたくしの帳面を通っていった。
帳面を通ったものは、忘れない。
それだけが、わたくしの取り柄だった。
ヴェッセル伯爵家からの縁談が届いたのは、春の終わりのことだった。
北部の名門。ただし、多額の借金を抱えた、傾いた名門。
条件は、先の三つ。
持参金は、要らない。三年で、離縁してよい。互いに、干渉しない。
姉は、書状を見るなり、扇で口元を隠して怯えた。
妹は、わたくしたちの誰かが売られるのだと思って、泣いた。
お父様は、書状を三日、裏返したまま、机に置いていらした。
裏返した紙が読めるようになるまで置いておくおつもりなら、長いお付き合いになる、と思った。
四日目の朝、わたくしは、その書状を表に返して、最後まで読んだ。
末尾に、屋敷と領地の財産目録の写しが、付いていた。
婚姻に伴う、形ばかりの財産確認。三十枚。
誰も読まない頁を、わたくしは、全部読んだ。
領地は北部にしては肥えていて、屋敷は古いが手堅く、目録の字は、几帳面だった。
借金の額の欄だけが、ぽつんと、他人の家の話のような顔をして、座っていた。
読み終えて、決めた。
「わたくしが、まいります」
お父様は、長いこと、黙っていらした。
それから、妙なことを仰った。
「……アデーレ。お前が行くと言うなら、止めん。お祖母様も、きっと、そう言われた」
お祖母様も、きっと、そう言われた。
そのときは、ただの励ましの言葉だと、思っていた。
持参金が要らないのなら、実家は痛まない。
三年で離縁してよいのなら、退路はある。
干渉しないというのなら——わたくしは、三年、好きに働ける。
期待されない場所ほど、仕事のしやすい場所は、ない。
北へ向かう馬車の旅は、五日かかった。
窓の外の緑が、日に日に、色を深くして、風が硬くなった。
北部の空は、南より低い場所にあった。
婚礼の式は、四半刻で終わった。
参列は、両家あわせて十一人。
聖堂の蝋燭は、祭壇の左右に、二本きり。
誓いの言葉は、三つ、省略された。
司祭様の声だけが、高い天井に、所在なさそうに昇っていった。
夫となった方は、レナート・フォン・ヴェッセル伯爵。二十六歳。
背の高い、姿勢のよい方だった。
所作は綺麗で、疲れた目をしていらした。
差し出された手は、ペンだこのある手だった。剣のまめではなく、ペンの方。それは、少しだけ、意外だった。
誓いの間、この方は一度だけ、わたくしを見た。
値踏みの目では、なかった。
謝罪の目に、近かったと思う。
式のあと、屋敷の廊下で、その方は立ち止まって、仰った。
「契約の条件は、ご存知の通りだ」
「はい。三年と、不干渉と」
「不自由は、させない。あなたの予算を削るつもりもない。ただ——」
言葉を、一度、切ってから。
「何も、期待しないでもらいたい。私からは、何も出ない」
「結構でございます」
即答が、意外だったらしい。
目の端が、わずかに動いた。
「期待されないことには、慣れておりますの。それに」
わたくしは、扇を持たない両手を、前で重ねた。
「期待のないところで積んだものが、いちばん、崩れませんでしょう」
夫は、何かを言いかけて、やめた。
そして「……好きにしろ」とだけ仰って、執務室の方へ、歩いて行かれた。
靴音が、三歩目で、半拍だけ遅れた。
気のせいかもしれない。
気のせいでないかもしれない。
わからないものは、急いで判断しないことにしている。
夜。
あてがわれた夫人の部屋で、わたくしは、荷を解いた。
部屋は、よく整えられていた。
寝台の敷布は糊が利いて、水差しは磨かれて、暖炉には薪が、几帳面に組んであった。
期待しない、と仰った方の家の客間にしては、手のかかった部屋だった。
ドレスは、三着。
宝石は、なし。
代わりに、革の表紙の古い帳面が、一冊。
亡くなったお祖母様の、家政帳。
わたくしの、たった一つの嫁入り道具。
表紙の革は、手の脂で飴色になって、角が、丸く擦り切れている。
幾千回、開かれた帳面の角は、こういう丸になる。
最初の頁の書き出しを、わたくしは、そらで言える。
『家政は、戦でございます』
お祖母様、わたくし、戦場に着きました。
胸の内でそうご報告して、帳面を、枕元に置いた。
眠る前に、水を一杯いただこうと、廊下に出た。
夜の屋敷は、静かだった。遠くで、どこかの扉が、一度だけ、低く、鳴った。
階段の上から、玄関ホールが、見下ろせた。
夜のホールは、薄暗かった。
壁沿いの燭台に、灯りが、ぽつり、ぽつりと点っている。
炎が、すきま風に、揃って同じ方へ、傾いでいた。
わたくしは、足を止めた。
——少ない。
財産目録の写し、十七枚目。玄関広間の項。
銀の燭台、二十四座。
わたくしは、欄干に手を置いたまま、目で、数えた。
十二。
もう一度、数えた。
十二。
磨かれた床。継ぎの当たったカーテン。半分の燭台。
倹約なら、結構なこと。
けれど、倹約なら、目録のほうを直すはずだ。紙の上にだけ、銀が二十四ある。
数字は、嘘をつくときに、揃いすぎる。
お祖母様の口癖が、耳の奥で、した。
わたくしは、欄干から手を離して、部屋へ戻った。
水は、飲みそびれた。
代わりに、枕元の家政帳を引き寄せて、白い頁を一枚、開いた。
ペンに、インクを含ませる。
ペン先が紙に触れる、あの小さな音が、しんとした部屋では、ずいぶん大きく聞こえた。
書きつけたのは、一行。
『初日。玄関広間、燭台。目録二十四、実物十二』
三年の契約の、初日の夜。
わたくしは、この家の最初の嘘を、見つけてしまったらしい。
——結構。
お仕事は、早いほうが、好きですもの。
お読みいただき、ありがとうございます。
期待されない花嫁の三年契約、初日から帳簿が不穏でございます。
次話「朝食の、卵の数」——朝の食卓にも、合わない数字があるようです。
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