第39話:貸し手の、帳面
老人は、膝の上の鞄を、ようやく、開けた。
中から出てきたのは、革の表紙の、分厚い帳面だった。角が擦り切れ、背が、幾度も綴じ直されている。手垢で飴色になった、古い、古い帳面だ。
「貸し手の、控えでございます」
老人は、それを、卓に置いた。旦那様と、わたくしの、ちょうど間に。
「お宅にお貸しした金の、貸した日と、額と、戻った日と、戻った額。それだけを、六十年、書き続けた帳面でございます。金貸しの帳面は、これ一冊しか、ございませぬ。裏も、表も、ない。……貸し手が二冊帳面を持ったら、それは、金貸しではなく、詐欺でございますからな」
裏も、表も、ない。
わたくしの見てきた、この家の帳簿とは、逆だった。この家の帳簿は、表があって、裏があって、三冊目まで、あるらしいのだ。
「奥様。お帳簿を、読まれる方と、伺いました。ひとつ、読んでいただきたい頁が、ございます」
老人は、飴色の帳面を、繰った。慣れた指だった。目当ての頁を、迷わず、開いた。
「ここ。当代に代替わりして、二年目の、春でございます」
わたくしは、身を、乗り出した。
当代二年目の春。——写しの筆跡が、変わる境目。二度払いの、始まった頃。
頁には、二本の列が、並んでいた。左に、貸した金。右に、戻った金。
数字そのものは、書きすぎない。祖母の家政帳が、そう教えている。合うか、合わぬか。合わぬなら、どこで。それだけを、見ればいい。
左と右は、合っていた。額は、きちんと、合っている。
合っていない列が、もう一つ、あった。
いちばん右の、細い欄。老人が「戻し先」と呼ぶ、金の届いた先を書く欄。
「返済の金は、届きまする。額は、合いまする。……けれど、この二年目の春から、届く金の、届き方が、変わりました」
老人の、節くれだった指が、その細い欄を、たどった。
「それまでは、伯爵家の名で、伯爵家の為替で、まっすぐ、参りました。ところが、この春から——同じ額が、別の名の為替で、参るように、なった。伯爵家ではない、どこかを、一度、経由して」
「別の、名」
「両替商の、名でございます」
わたくしの背を、冷たいものが、通った。
金は、届いている。額は、合っている。だから、誰も、疑わなかった。旦那様も、疑わなかった。返済は、滞りなく、届いていたのだから。
けれど、その金は、伯爵家から、まっすぐ来てはいなかった。一度、どこかの両替商を、経由していた。
まっすぐ来る金と、一度どこかを回ってくる金。額が同じでも、それは、別のものだ。
なぜ、回す必要があるのか。まっすぐ払える金を、なぜ、わざわざ、他人の名の為替に、組み替えるのか。
答えは、一つしか、ない。
まっすぐでは、都合の悪い金が、その流れに、紛れているからだ。
「旦那様」
わたくしは、隣を、見た。
旦那様は、帳面の、その細い欄を、見つめておられた。顔が、白かった。
「……知らなかった。返済は、私が、毎月、確かめていた。額は、いつも、合っていた。だから」
「額は、合っておりました」
老人が、静かに、言った。
「合っていたからこそ、二十年、誰も、この欄を、見なかった。伯爵様。金というものは、額が合っているときが、いちばん、危のうございます。人は、合った数字を、二度は、見ませぬからな」
数字は、嘘をつくときに、揃いすぎる。
わたくしの口癖を、この老人は、六十年かけて、覚えていた。
わたくしは、その細い欄に、書かれた両替商の名を、読んだ。
小さな、事務的な字で、そこに、書いてあった。
——ドルン。
王都の、両替商。
その名を、わたくしは、知っていた。三月前、この家の凍結した金の、過去の流れ先として、一度だけ、見た名だ。
家の外へ漏れ出た金の、その先。
屋敷の中で見つけた「第三の口座」と、屋敷の外で老人が見ていた「戻し先」が、同じ一つの名で、たったいま、繋がった。
湖には、水の流れ込む口が、ある。
その口の名が、ドルンだった。
お読みいただき、ありがとうございます。
額の合った数字ほど、危ういものはございません。
次話「返済計画の、再設計」——老人の、本当の御用向き。
ブックマーク・評価をいただけますと、大変励みになります。




