第38話:お茶の、温度
二度目に茶を勧めると、老人は、今度は、止めなかった。
わたくしは、支度をした。湯の温度、茶葉の量、蒸らしの間——いつもの、家政帳の手順どおりに。旦那様に淹れるのと、同じ手で、淹れた。
この老人が、蝋燭を数える人だということは、もう、わかっている。ならば、茶も、いいかげんには、出せない。
碗を、老人の前に、置いた。
老人は、両手で碗を包み、湯気を、ひと呼吸、嗅いだ。それから、一口、含んだ。
含んで、目を、閉じた。
「……七分の湯で、蒸らしは、三つ数えるより、少し長め。茶葉は、けちっておられぬ」
わたくしは、答えなかった。答える必要も、ない。全部、そのとおりだったのだから。
「奥様。お茶の温度というものは、正直でございます。淹れた者の、その日の心持ちが、そっくり、出まする。急いておれば、熱すぎる。うわの空なら、ぬるい。……この一杯は、落ち着いておられる。今朝、帳簿を締めてこられた、と申されたのは、まことのようで」
「旦那様には、飲み干していただけますの」
「でございましょうな」
老人は、もう一口、飲んだ。
「ヒルシュ殿」
旦那様が、口を開かれた。
「わざわざ王都から、蝋燭と茶の温度を検分に来られたわけでは、あるまい。御用の向きを、伺いたい」
「せっかちで、いらっしゃる。お父上に、似てこられました」
旦那様の肩が、わずかに、動いた。
父上に、似てきた。——この老人は、先代を、知っている。
「……父を、ご存知か」
「三十年、この御家に、金を、貸しておりまする」
三十年。
わたくしの手元の帳簿は、三年分。それより古いものは、写しにもない。この老人は、わたくしの三年の、その十倍を、見てきた。
「先代様に、貸し。その前の御代にも、貸し。金貸しというのは、因果な商売でしてな。貸した金の戻り方を見ておると、その御家の内証が、住んでいる者より先に、わかってしまう。壁の中の、水漏れのようなものでございます。天井の染みが出る前に、貸し手には、床下の水音が、聞こえておりまする」
老人は、碗を置いた。
「この二十年、ヴェッセルの御家からは——妙な、水音が、しておりました」
「妙な、とは」
「返済が、参りまする。きちんと、参りまする。毎月、毎月、耳を揃えて。……けれど、その金の出どころが、年々、おかしくなってゆく。まっとうな家の実入りから返す金と、無理に絞り出した金とでは、手触りが、違いまする。ここ二十年のヴェッセルの返済は——痩せた牛から、乳を搾るような、手触りでございました」
わたくしは、思わず、問うた。
「二十年、その水音を、お聞きになっていて」
「ええ」
「なぜ、何も、仰らなかったのですか」
老人は、わたくしを、見た。
あの、笑ったのか値踏みしたのかわからない目で、しばらく、わたくしを、見ていた。
「金貸しは、水漏れを、直しませぬ。直すのは、住む人の仕事。わたくしどもは、ただ、貸した金が、戻るかどうかだけを、見ておりまする。……戻っておるうちは、口を、出しませぬ」
それは、答えのようで、答えでは、なかった。
水音が聞こえていたのなら、なぜ、と、わたくしは、また問いたくなった。けれど、老人の目が、それ以上は、と、静かに、閉じていた。
この人は、なぜ黙っていたかを、まだ、話す気がない。
ならば、今日は、聞かないでおく。わからないものは、急いで、判断しない。祖母の家政帳に、そう、書いてある。
「では、なぜ、いま」
旦那様が、問われた。
「二十年、黙っていた貴殿が、なぜ、いま、王都から出てこられた」
老人は、三たび、碗を取った。
もう、冷めかけているだろう茶を、それでも、うまそうに、飲み干した。
「——お宅の帳面が、二十年ぶりに、正直になったからでございます」
碗の底を、見ながら、老人は、言った。
「痩せた牛の乳の味が、この三月で、変わりました。無理のない、まっとうな乳の味に。……金貸しが六十年商売をしておりますとな、奥様。正直になった帳面の匂いだけは、遠くからでも、嗅ぎ分けられるように、なりまする」
老人は、空になった碗を、置いた。
「正直な帳面には、正直な話を、いたしたい。それだけの用件で、老いぼれが一人、五日、揺られて参りました。……三年の御契約と、伺いましたが」
「よく、ご存知ですこと」
「二年と、八月、残っておられますな。その間に、片づけておきたい話が、こちらにも、ございましてな」
残り、二年と、八月。
その数を、この老人も、数えていた。
わたくしの帳面の、いちばん外側で。
お読みいただき、ありがとうございます。
「正直な帳面の匂い」——貸し手の鼻は、六十年ものでございました。
次話「貸し手の、帳面」——ついに、鞄が開きます。
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