第37話:王都からの、御老人
第二部「家の外」、開幕でございます。
屋敷の中の数字は、合いました。次は、屋敷の外の帳面のお話。
北の街道に、馬車の音がした。
初冬の朝だった。空は高く、風は乾いて、玄関ホールの十八の蝋燭は、まだ火を入れる前だった。
わたくしは、その音を、二階の窓から聞いた。
馬車は一台。荷は少ない。老いた馬が二頭。御者のほかに、供は連れていないらしい。二十年分の帳簿を抱えて来るにしては、ずいぶん、身軽な音だ。
門で、ヴィムさんの声がした。それから、車輪が、玄関の車寄せで止まった。
わたくしは、帳面を閉じ、袖口を、整えた。
迎えの支度は、済んでいる。三日前から、済ませてある。
玄関に降りると、旦那様が、先に立っておられた。
「……来たな」
「参りましたわね」
旦那様の声は、硬い。当主に会いに来たのではない客を、当主として迎えるというのは、妙な作法だ。名指しされたのは、わたくしだった。それを承知で、旦那様は、玄関に立っておられる。
扉が、開いた。
入ってきたのは、小さな老人だった。
背は低く、痩せて、けれど背筋は、まっすぐだった。上等だが古い外套。使い込んだ革の鞄を、片手に提げている。年の頃は、七十を、とうに越えていよう。
その老人が、玄関ホールの敷居で、足を止めた。
そうして、挨拶より先に、天井を、見上げた。
「……一、二、三」
小さな声で、数えている。
燭台の、蝋燭の数を。
「十二、十五……十八、でございますな」
数え終えて、老人は、満足そうに、うなずいた。それから、ようやく、わたくしたちの方を、見た。
「ヤーコプ・ヒルシュと、申しまする。王都で、金貸しを、しておりまする」
深い、丁寧なお辞儀だった。ベルトルトの、寸分の狂いもない完璧なお辞儀とは、どこか違う。骨が古くて、少し、軋むお辞儀だった。
「本来は、目録の二十四座。三月前までは、十二座。今朝は、十八座。……六座、戻されましたな」
わたくしは、答えなかった。
この老人は、玄関に入って、まだ十を数えぬうちに、この家が三月で何を取り戻したかを、蝋燭の数だけで、読んだ。
旦那様が、口を、開かれた。
「ヒルシュ殿。長旅で、お疲れでしょう。まず、奥へ」
「ありがとう存じます、伯爵様」
老人は、旦那様に、もう一度、頭を下げた。そうして、まっすぐに、わたくしを、見た。
「奥様。ご書状を、差し上げた者でございます。……お帳簿の、お差し支えなき日に、と申しました。お差し支え、ございませんでしたか」
「ございませんわ。今朝も、締めてまいりました」
「けっこう。まことに、けっこう」
老人の目が、細くなった。笑ったのか、値踏みしたのか、わからない目だった。
わたくしは、奥の間へ、案内した。
通す前に、老人は、一度だけ、立ち止まった。
西棟へ続く、暗い廊下の方を、見た。閉ざされた、先代の書斎のある方だ。
見て、それから、何も言わずに、視線を、戻した。
けれど、わたくしは、見てしまった。老人の目が、あの廊下の暗がりを、初めて見る人の目では、なかったことを。
この人は、この家の暗がりの位置を、知っている。
行ったことのある人の、目だった。
奥の間で、外套を脱ぎ、腰を下ろすと、老人は、しばらく、黙っていた。
鞄は、膝の上に置いたまま。開けようとは、しない。
わたくしが茶の支度をしようとすると、老人は、片手で、それを、静かに、止めた。
「奥様。お茶の前に、一つだけ、お尋ねしても、よろしいか」
「どうぞ」
老人は、膝の上の鞄を、そっと、撫でた。
「お宅の借金の——いちばん、古い、一枚を。奥様は、ご覧になったことが、ございますか」
いちばん、古い、一枚。
わたくしの手元にある帳簿は、当代の三年分。それより前は、写しにもない。
「……いいえ」
「さようで、ございますか」
老人は、静かに、うなずいた。それきり、また、黙った。
鞄は、膝の上で、閉じたまま。
二十年分の帳簿を抱えて来た老人は、その帳簿を、まだ、一頁も、開いていなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
第二部の最初のお客様は、蝋燭を数える御老人でございました。
次話「お茶の、温度」——貸し手の帳面には、いったい何が。
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