表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三年で離縁の契約ですが、まずこの家の帳簿を直させていただきます 〜お飾り妻の、静かな家政立て直し〜  作者: 銀月ソフィ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
36/53

第36話:商会からの、書状

 三月目の月次報告は、一枚に、戻った。


 食費、安定。

 給金、一割増のうえで、幽霊分の凍結により、差引で先月並み。

 納入、ベンケ・ロルフ両商会とも、入用どおり。

 臨時収入、返納一件。

 支出、燭台六座。

 繰り上げ返済、一回分。


 行が、まっすぐに、並んだ。

 どの行にも、説明のつかない数字が、ない。

 嫁いだ日には、この家の帳簿のどの頁にも、なかった眺めだ。


 朝の光の中で、わたくしは、その一枚を、三度、読み返した。

 誰かの癖が、うつったらしい。


 執務室で、旦那様も、いつものように、三度、読まれた。


 それから、仰った。


「……合っているな」


「合っております」


「全部か」


「いまの帳簿の上では、全部、でございます」


 いまの帳簿の上では。

 二十年の古い嘘は、まだ、西棟の闇の中だ。三冊目の帳簿も、十八頁目も、ドルンの湖も、これからの仕事。


 けれど、今日のところは——今日の分の数字は、合った。

 今日の分の数字が合う。たったそれだけのことが、この家には、二十年、なかったのだ。


 旦那様は、報告書を、いつもの引き出しに、しまわれた。

 引き出しの中に、紙の束が、見えた。

 一月目から、三月目まで。三枚とも、捨てずに、ある。

 返済の書類と、同じ引き出しに。この家でいちばん、大事な紙の場所に。


「アデーレ」


「はい」


「ふた月前、この机で、あなたは言った。『この家は、傾いてなどいない。流れている。流れは、堰き止められる』と」


「申しました」


「————堰き止まったぞ。今月、初めて、返済が、予定より前に出た。三年で、初めてだ」


 旦那様の声は、静かだった。

 静かなまま、どこかが、震えていた。

 毎晩、底のない井戸を覗いてきた人が、初めて、井戸の水面を見た——そういう声だった。


「礼を、言う。……契約の文言に、ない仕事だ」


「あら。契約には『干渉しない』とございましたわ。家政がお家に干渉するなとは、書いてございませんでしたもの」


「……屁理屈だ」


「帳尻、と申しますの」


 旦那様が、笑われた。

 今度は、目元だけでは、なかった。


 その顔を、帳面のどこに付ければよいのか、わたくしは、まだ、知らない。

 知らないまま、覚えてしまった。



 その夜のことだった。


 夕食のあと、ヴィムさんが、銀盆に書状を一通、載せて、参られた。


「王都より、いま、届きましてございます。……ヒルシュ商会の、御印で」


 旦那様と、わたくしは、顔を、見合わせた。


 ヒルシュ商会。

 二度の「お話ししたい」を、こちらが、保留にしたままの、債権者どの。


 旦那様が、封を、切られた。

 飾り文字の「H」の封蝋が、ぱきりと、割れた。

 読む目が、二行目で、止まった。

 それから、黙って、書状を、わたくしに、渡された。


『ヴェッセル伯爵様


 かねてよりのお願いの儀、いまだお返事をいただけぬまま、季節が変わりましてございます。

 老人の気は、短うございます。ゆえに、不躾を承知で、こたびは、お願いの形を、変えまする。


 お屋敷のお取引の帳面が、この三月のうちに改まりましたこと、商人仲間より、聞き及んでおります。ベンケの注文書のこと。ロルフの樽のこと。あの形を、二十年、誰も正せなんだことを、わたくしは、誰よりも、よく存じております。


 つきましては——


 ご夫人に、お目にかかりたい。


 伯爵様では、ございません。帳面を改められた、ご夫人に、でございます。

 老人が一人、王都より馬車にて、まかり越します。日取りは、ご夫人のお帳簿の、お差し支えなき日に。


 ヒルシュ商会 主人

 ヤーコプ・ヒルシュ』


 読み終えて、わたくしは、書状を、もう一度、最初から、読んだ。


 債権者が。

 当主ではなく、妻に、会いたいと言ってきた。

 帳面を改めた者に、用がある、と。


 そして、一行。

 何気ない顔で、恐ろしいことの書いてある、一行。


 『あの形を、二十年、誰も正せなんだことを、わたくしは、誰よりも、よく存じております』


 ——ご存知、でしたのね。

 二十年。

 貸した側の帳簿から、ずっと、見えていらしたのね。


 見えていて、なぜ、黙っていらしたの。

 なぜ、いま、口を開く気になったの。

 そして、あなたの帳簿には、いったい、何が、書いてあるの。


 問いが、三つ。

 帳簿読みの相手から届いた手紙は、行間まで、帳簿の顔をしている。


 旦那様が、仰った。


「……会うのか」


「会いますわ」


 わたくしは、書状を、丁寧に、畳んだ。


「お帳簿の、お差し支えなき日に、と仰せですもの。——わたくしの帳簿は、いつでも、差し支えございませんの。今朝、締めたばかりですから」


 三年の契約の、最初の季節が、終わる。

 屋敷の中の数字は、合った。

 次は、屋敷の外の数字だ。


 玄関ホールの十八の灯りが、夜の窓の向こうで、静かに揺れている。

 その灯りの届かない北の街道の先から、老人が一人、二十年分の帳簿を抱えて、こちらへ向かってくる。


 お読みいただき、ありがとうございます。


 これにて第一部「屋敷の中」、結びでございます。

 長らくのお付き合い、心より御礼申し上げます。


 第二部「家の外」は、債権者ヒルシュ翁の来訪から始まります。

 二十年、見えていて黙っていた人の帳簿の話を、どうぞお楽しみに。


 ブックマークと評価で、第二部を応援いただけますと、大変励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ