第36話:商会からの、書状
三月目の月次報告は、一枚に、戻った。
食費、安定。
給金、一割増のうえで、幽霊分の凍結により、差引で先月並み。
納入、ベンケ・ロルフ両商会とも、入用どおり。
臨時収入、返納一件。
支出、燭台六座。
繰り上げ返済、一回分。
行が、まっすぐに、並んだ。
どの行にも、説明のつかない数字が、ない。
嫁いだ日には、この家の帳簿のどの頁にも、なかった眺めだ。
朝の光の中で、わたくしは、その一枚を、三度、読み返した。
誰かの癖が、うつったらしい。
執務室で、旦那様も、いつものように、三度、読まれた。
それから、仰った。
「……合っているな」
「合っております」
「全部か」
「いまの帳簿の上では、全部、でございます」
いまの帳簿の上では。
二十年の古い嘘は、まだ、西棟の闇の中だ。三冊目の帳簿も、十八頁目も、ドルンの湖も、これからの仕事。
けれど、今日のところは——今日の分の数字は、合った。
今日の分の数字が合う。たったそれだけのことが、この家には、二十年、なかったのだ。
旦那様は、報告書を、いつもの引き出しに、しまわれた。
引き出しの中に、紙の束が、見えた。
一月目から、三月目まで。三枚とも、捨てずに、ある。
返済の書類と、同じ引き出しに。この家でいちばん、大事な紙の場所に。
「アデーレ」
「はい」
「ふた月前、この机で、あなたは言った。『この家は、傾いてなどいない。流れている。流れは、堰き止められる』と」
「申しました」
「————堰き止まったぞ。今月、初めて、返済が、予定より前に出た。三年で、初めてだ」
旦那様の声は、静かだった。
静かなまま、どこかが、震えていた。
毎晩、底のない井戸を覗いてきた人が、初めて、井戸の水面を見た——そういう声だった。
「礼を、言う。……契約の文言に、ない仕事だ」
「あら。契約には『干渉しない』とございましたわ。家政がお家に干渉するなとは、書いてございませんでしたもの」
「……屁理屈だ」
「帳尻、と申しますの」
旦那様が、笑われた。
今度は、目元だけでは、なかった。
その顔を、帳面のどこに付ければよいのか、わたくしは、まだ、知らない。
知らないまま、覚えてしまった。
その夜のことだった。
夕食のあと、ヴィムさんが、銀盆に書状を一通、載せて、参られた。
「王都より、いま、届きましてございます。……ヒルシュ商会の、御印で」
旦那様と、わたくしは、顔を、見合わせた。
ヒルシュ商会。
二度の「お話ししたい」を、こちらが、保留にしたままの、債権者どの。
旦那様が、封を、切られた。
飾り文字の「H」の封蝋が、ぱきりと、割れた。
読む目が、二行目で、止まった。
それから、黙って、書状を、わたくしに、渡された。
『ヴェッセル伯爵様
かねてよりのお願いの儀、いまだお返事をいただけぬまま、季節が変わりましてございます。
老人の気は、短うございます。ゆえに、不躾を承知で、こたびは、お願いの形を、変えまする。
お屋敷のお取引の帳面が、この三月のうちに改まりましたこと、商人仲間より、聞き及んでおります。ベンケの注文書のこと。ロルフの樽のこと。あの形を、二十年、誰も正せなんだことを、わたくしは、誰よりも、よく存じております。
つきましては——
ご夫人に、お目にかかりたい。
伯爵様では、ございません。帳面を改められた、ご夫人に、でございます。
老人が一人、王都より馬車にて、まかり越します。日取りは、ご夫人のお帳簿の、お差し支えなき日に。
ヒルシュ商会 主人
ヤーコプ・ヒルシュ』
読み終えて、わたくしは、書状を、もう一度、最初から、読んだ。
債権者が。
当主ではなく、妻に、会いたいと言ってきた。
帳面を改めた者に、用がある、と。
そして、一行。
何気ない顔で、恐ろしいことの書いてある、一行。
『あの形を、二十年、誰も正せなんだことを、わたくしは、誰よりも、よく存じております』
——ご存知、でしたのね。
二十年。
貸した側の帳簿から、ずっと、見えていらしたのね。
見えていて、なぜ、黙っていらしたの。
なぜ、いま、口を開く気になったの。
そして、あなたの帳簿には、いったい、何が、書いてあるの。
問いが、三つ。
帳簿読みの相手から届いた手紙は、行間まで、帳簿の顔をしている。
旦那様が、仰った。
「……会うのか」
「会いますわ」
わたくしは、書状を、丁寧に、畳んだ。
「お帳簿の、お差し支えなき日に、と仰せですもの。——わたくしの帳簿は、いつでも、差し支えございませんの。今朝、締めたばかりですから」
三年の契約の、最初の季節が、終わる。
屋敷の中の数字は、合った。
次は、屋敷の外の数字だ。
玄関ホールの十八の灯りが、夜の窓の向こうで、静かに揺れている。
その灯りの届かない北の街道の先から、老人が一人、二十年分の帳簿を抱えて、こちらへ向かってくる。
お読みいただき、ありがとうございます。
これにて第一部「屋敷の中」、結びでございます。
長らくのお付き合い、心より御礼申し上げます。
第二部「家の外」は、債権者ヒルシュ翁の来訪から始まります。
二十年、見えていて黙っていた人の帳簿の話を、どうぞお楽しみに。
ブックマークと評価で、第二部を応援いただけますと、大変励みになります。




