第35話:三年の、最初の季節
婚礼から、三月——ひと季節が、経った。
その朝、わたくしの机に、一通の書面が、届いた。
差出は、リンデンの実家の、顧問弁護士どの。
几帳面に折られた、事務の紙。実家の匂いの、しない紙だ。弁護士どのの事務所の、インクの匂いがした。
『婚姻契約第七条に基づき、季節ごとの確認をいたします。
契約の継続に、双方、異存はございませんか。
離縁の意思が生じております場合は、本書面にて、お申し出いただけます』
第七条。
そういえば、あった。
季節の変わり目ごとに、互いの意思を、確認する条項。
言い出しにくいことを、言い出せる窓を、定期的に開けておく——あの方らしい、誠実な仕掛けだ。
窓は、開いてこそ窓。開かない窓は、ただの壁の絵だと、契約を書いた方は、ご存知なのだ。
嫁いだ日のわたくしなら、この書面を、事務として、茶も淹れずに返していた。
「異存なし」と書いて、署名して、おしまい。
今朝のわたくしは、その書面を、机に置いたまま、お茶を、一杯、淹れてしまった。
……あら。
淹れてから、気づいた。
わたくし、この紙に、お茶の時間を、使っている。
異存は、ない。あるはずがない。仕事は、山ほど残っている。樽の件も、西棟も、十八頁目も、ヒルシュ商会も。
契約続行。当然のこと。
家政係が、仕事の途中で職場を出る道理がない。それだけのこと。
当然のことに、お茶は、要らないはずだった。
要った理由を、わたくしは、考えないことにした。
帳簿に書けない科目を、増やしても、仕方がないもの。
署名して、封をした。
封をする蝋の溶ける匂いが、今朝は、妙に、長く残った。
昼、署名した書面を出しに行くと、廊下で、旦那様と、行き合った。
旦那様の手にも、同じ形の封筒が、あった。
あちらの分の、確認書面だ。
互いの手元を見て、互いに、見たことに気づいて、妙な間が、生まれた。
「……出しに行くのか」
「はい。旦那様も」
「ああ。……その」
旦那様は、封筒の角を、指で、二度、揃えられた。
揃っている角を。
「形式的な、ものだからな。これは」
「ええ。形式は、大切ですわ」
「うむ」
「はい」
それきり、二人とも、黙ってしまった。
廊下の窓から、初冬の白い光が、斜めに落ちていた。
二人とも、署名済みの封筒を持って、立っている。
中身は、互いに、見えない。
異存なし、と書いたかどうかは、互いの封蝋の、向こう側だ。
……書いたに、決まっている。決まっているのに、確かめられないというだけで、封筒というものは、ずいぶん、重くなる。
先に動いたのは、旦那様だった。
すれ違いざま、前を向いたまま、早口で、仰った。
「——ひと季節、早かった」
え、と顔を上げたときには、もう、廊下の先にいらした。
早かった。
それだけ。
続きも、説明も、なし。
……ですから、旦那様。
深い意味のない言葉は、すれ違いざまに、仰らないものですのよ。
夜、家政帳を、開いた。
ひと季節分の頁を、ぱらぱらと、さかのぼる。
初日の燭台。卵。写し。お茶会。温室。夜食。西棟の灯り。帳簿の移管。十八の灯り。
三月で、ずいぶん、いろいろなことを、書いた。
数字の行と、数字でない行と。
数字でない行が、後ろの月ほど、増えている。
帳簿付けとして、これは、よくない傾向だ。
よくない傾向、ということに、しておく。
わたくしは、今日の行を、書いた。
『九十一日目。契約確認、異存なしにて返送。「ひと季節、早かった」と、廊下にて』
書いて、少し迷って、もう一行、足した。
『同感、と書きそびれる』
三年の契約の、最初のひと季節が、終わった。
残りは、二年と、九月。
——あら。
わたくし、いま、「残り」と、数えた。
嫁いだ日には、「もう、これだけ過ぎた」と数えるつもりで、いたはずなのに。
いつのまにか、砂時計を、逆さに持っている。
期限が、初めて、短く感じられた。
砂時計を逆さに持ち替えた日付は、家政帳のどこにも、書いていない。
書いていないのに、確かに、どこかの頁の間に、ある。
帳簿は、嘘をつかない。
ただ、ときどき、書かれなかったものの方が、いちばん、本当なのだった。
お読みいただき、ありがとうございます。
砂時計が、いつのまにか、逆さでございます。
次話「商会からの、書状」——第三章、締めの一話。第一部の、結びでございます。
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