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三年で離縁の契約ですが、まずこの家の帳簿を直させていただきます 〜お飾り妻の、静かな家政立て直し〜  作者: 銀月ソフィ


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35/52

第35話:三年の、最初の季節

 婚礼から、三月——ひと季節が、経った。


 その朝、わたくしの机に、一通の書面が、届いた。

 差出は、リンデンの実家の、顧問弁護士どの。

 几帳面に折られた、事務の紙。実家の匂いの、しない紙だ。弁護士どのの事務所の、インクの匂いがした。


『婚姻契約第七条に基づき、季節ごとの確認をいたします。

 契約の継続に、双方、異存はございませんか。

 離縁の意思が生じております場合は、本書面にて、お申し出いただけます』


 第七条。

 そういえば、あった。

 季節の変わり目ごとに、互いの意思を、確認する条項。

 言い出しにくいことを、言い出せる窓を、定期的に開けておく——あの方らしい、誠実な仕掛けだ。

 窓は、開いてこそ窓。開かない窓は、ただの壁の絵だと、契約を書いた方は、ご存知なのだ。


 嫁いだ日のわたくしなら、この書面を、事務として、茶も淹れずに返していた。

 「異存なし」と書いて、署名して、おしまい。


 今朝のわたくしは、その書面を、机に置いたまま、お茶を、一杯、淹れてしまった。


 ……あら。


 淹れてから、気づいた。

 わたくし、この紙に、お茶の時間を、使っている。


 異存は、ない。あるはずがない。仕事は、山ほど残っている。樽の件も、西棟も、十八頁目も、ヒルシュ商会も。

 契約続行。当然のこと。

 家政係が、仕事の途中で職場を出る道理がない。それだけのこと。


 当然のことに、お茶は、要らないはずだった。


 要った理由を、わたくしは、考えないことにした。

 帳簿に書けない科目を、増やしても、仕方がないもの。


 署名して、封をした。

 封をする蝋の溶ける匂いが、今朝は、妙に、長く残った。



 昼、署名した書面を出しに行くと、廊下で、旦那様と、行き合った。


 旦那様の手にも、同じ形の封筒が、あった。

 あちらの分の、確認書面だ。


 互いの手元を見て、互いに、見たことに気づいて、妙な間が、生まれた。


「……出しに行くのか」


「はい。旦那様も」


「ああ。……その」


 旦那様は、封筒の角を、指で、二度、揃えられた。

 揃っている角を。


「形式的な、ものだからな。これは」


「ええ。形式は、大切ですわ」


「うむ」


「はい」


 それきり、二人とも、黙ってしまった。


 廊下の窓から、初冬の白い光が、斜めに落ちていた。

 二人とも、署名済みの封筒を持って、立っている。

 中身は、互いに、見えない。

 異存なし、と書いたかどうかは、互いの封蝋の、向こう側だ。

 ……書いたに、決まっている。決まっているのに、確かめられないというだけで、封筒というものは、ずいぶん、重くなる。


 先に動いたのは、旦那様だった。

 すれ違いざま、前を向いたまま、早口で、仰った。


「——ひと季節、早かった」


 え、と顔を上げたときには、もう、廊下の先にいらした。


 早かった。

 それだけ。

 続きも、説明も、なし。


 ……ですから、旦那様。

 深い意味のない言葉は、すれ違いざまに、仰らないものですのよ。



 夜、家政帳を、開いた。


 ひと季節分の頁を、ぱらぱらと、さかのぼる。


 初日の燭台。卵。写し。お茶会。温室。夜食。西棟の灯り。帳簿の移管。十八の灯り。


 三月で、ずいぶん、いろいろなことを、書いた。

 数字の行と、数字でない行と。

 数字でない行が、後ろの月ほど、増えている。

 帳簿付けとして、これは、よくない傾向だ。


 よくない傾向、ということに、しておく。


 わたくしは、今日の行を、書いた。


『九十一日目。契約確認、異存なしにて返送。「ひと季節、早かった」と、廊下にて』


 書いて、少し迷って、もう一行、足した。


『同感、と書きそびれる』


 三年の契約の、最初のひと季節が、終わった。

 残りは、二年と、九月。


 ——あら。


 わたくし、いま、「残り」と、数えた。


 嫁いだ日には、「もう、これだけ過ぎた」と数えるつもりで、いたはずなのに。

 いつのまにか、砂時計を、逆さに持っている。


 期限が、初めて、短く感じられた。


 砂時計を逆さに持ち替えた日付は、家政帳のどこにも、書いていない。

 書いていないのに、確かに、どこかの頁の間に、ある。

 帳簿は、嘘をつかない。

 ただ、ときどき、書かれなかったものの方が、いちばん、本当なのだった。


 お読みいただき、ありがとうございます。

 砂時計が、いつのまにか、逆さでございます。


 次話「商会からの、書状」——第三章、締めの一話。第一部の、結びでございます。


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