第34話:旦那様と、燭台
夜、水を取りに下りると、玄関ホールに、人影があった。
旦那様だった。
階段の下に立って、灯りの入った燭台を、見上げていらした。
上着も羽織らず、夜着のまま。
眠れずに、水でも取りにいらして、それから、ここで、足が止まったままになった——そういう立ち方だった。
お声をかけるか、迷った。
迷っているうちに、あちらが、気づかれた。
「……アデーレか」
「お邪魔でしたら、下がりますわ」
「いや。————いい」
いい、の意味が、わからなかったので、わたくしは、階段を下りて、隣に、立った。
二人で、燭台を、見上げる形になった。
灯りは、静かだった。
十八の炎が、それぞれの速さで、揺れていた。
炎の音というものは、昼間は聞こえない。夜の玄関でだけ、小さく、聞こえる。
「母は」
旦那様が、灯りを見たまま、仰った。
「母は、南の生まれだった。北の冬が、最後まで、苦手で。……夜、玄関の灯りを全部つけて、『これで南の夜と同じ明るさ』と笑っていた。子供の頃は、それが、当たり前の景色だと思っていた」
「————」
「母が死んで、葬式の費用で、父が燭台を売った。半分になった玄関を見て、初めて、わかった。当たり前の景色は、誰かが、毎晩、作っていたんだと」
わたくしは、黙って、聞いていた。
帳簿に書かない話は、急かさない。
十八年。この方は、半分の玄関を、毎日、通って暮らしてこられた。売られた燭台の数を、たぶん、わたくしと同じ正確さで、覚えながら。
「……あなたが嫁いでくる前の話を、する」
旦那様は、灯りから、目を離さずに、続けられた。
「婚約者が、いた。家が決めた相手だ。借財のことは、伝えてあった。額までは、伝えていなかった。……婚礼の三月前に、彼女の家が、人を使って、家の台所事情を調べた。それで、終わりだ。彼女は玄関で『こんな家だと思わなかった』と言った。……あれは、正しい言葉だ。こんな家、だったからな」
「————」
「以来、決めていた。次に妻を迎えるなら、最初から、全部、紙に書く。持参金は取らない。期限を付ける。期待を、互いに、しない。……そうすれば、誰も、嘘をつかずに済む。『こんな家』に、騙されて入る人が、いなくなる」
三つの契約条件の、根っこの話だった。
あの三行は、冷たさでは、なかった。
あれは、あの方なりの、正直さの形式だったのだ。
帳簿に、嘘を書かない人の、婚姻契約の付け方。
値札のない品で人を迎えてはいけない、と決めた人の——一生に二度目の、玄関の作り方。
「……旦那様」
「なんだ」
「わたくし、あの契約書、嫁ぐ前に、三度読みましたの。それで、思いましたわ。『誠実な書き方をなさる家だこと』と」
旦那様が、初めて、こちらを、向いた。
「……誠実?」
「ええ。隠したい家は、期限なんて、書きませんもの。条件を全部、先に、紙にしてくださる。財産目録の写しまで、付けて。——わたくしが安心して嫁いでこられたのは、あの契約書が、正直だったからですわ」
あなたの作った玄関を、わたくしは、正面から、入ってまいりましたのよ。
騙されてでは、なく。
そこまでは、申し上げなかった。今夜の分量を、超えてしまうから。
灯りが、揺れた。
旦那様は、何かを仰ろうとして、一度、やめて、それから、低く、仰った。
「……あなたは、母とは違うやり方で、ここに立っている」
「はい?」
「母は、灯りを増やして、北の夜を、南に変えようとした。あなたは……帳簿を直して、この家の夜を、この家のまま、明るくしている。……そういう、意味だ。深い意味はない。もう寝る。おやすみ」
旦那様は、早足で、階段を上がっていかれた。
途中で、一段、踏み損ねかけたのを、わたくしは、見ないでおいて差し上げた。
見ないでおいて差し上げるものが、この家には、ずいぶん、増えた。
部屋に戻って、家政帳に、書く。
『八十九日目。燭台の下にて。契約三条の、根の話。「この家のまま、明るくしている」と』
書いてから、ペンを置いて、わたくしは、頬杖をついた。
深い意味はない、と仰った。
深い意味のない話は、夜の玄関で、なさらないものですわ、旦那様。
お母様の話も、前の方の話も、契約の根の話も——深い意味のない晩に、まとめて出てくるものでは、ありませんのよ。
帳簿読みを、なめてはいけない。
行間は、いちばん、読まれる場所なのに。
……ただ、今夜の行間は、読めてしまった分だけ、胸の置き場に、困った。
帳簿と違って、人の行間は、読めたあとの仕舞い方を、教えてくれない。
お読みいただき、ありがとうございます。
深い意味のないお話、でございました。
次話「三年の、最初の季節」——契約の、最初の節目のお話です。
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