第33話:お祖母様の、二冊目
お祖母様の家政帳の綴じ糸が、切れた。
毎晩、開いていたから。
糸は、三十年も働けば、切れる。責められない。
むしろ、この三月の働かせ方が、いちばん、酷だったかもしれない。三十年分の出番が、この秋に、まとめて来たのだから。
わたくしは、製本のやり直しを、自分ですることにした。
お祖母様の帳面を、他人の手には、渡したくなかった。
町の製本屋の腕を疑うのではない。ただ、この帳面は、わたくしの家族なのだ。家族の着替えを、人には頼まない。
夜、机に布を敷いて、道具を並べた。
目打ち。麻糸。蜜蝋。膠の小瓶。
糸を抜いて、頁を、丁寧に、ばらしていく。
帳面は、ばらすと、ただの紙の束に戻る。紙の束に戻った帳面は、少し、心細そうに見える。
そのとき、気づいた。
表紙の裏の、見返しの紙。
そこだけ、紙が、二重になっていた。
糊の入れ方が、他と違う。あとから、貼られたものだ。
灯りにかざすと、間に、何かが、透けた。
わたくしは、湯気で、糊を、ゆっくり緩めた。
急がない。紙を破く手は、たいてい、急いだ手だ。
湯気の上で、三十年前の糊が、少しずつ、眠りから覚めていく。
出てきたのは、二つ折りの、薄い紙が、一枚。
手紙の、下書きらしかった。
書き出しの行に、宛名が、あった。
『ヴェッセルの奥方様へ』
お祖母様の字。
けれど、わたくしの知っている、老いた字ではない。撥ねの強い、若い字でもない。
その中間の——人生の真ん中あたりの、字だった。
『ヴェッセルの奥方様へ
お約束の品、確かに、お預かりいたしました。
肌身離さず、と申し上げたいところですが、紙は、肌より、長持ちいたしますもの。わたくしの帳面の、いちばん静かな場所に、しまいます。
奥方様の、ご案じの儀、ごもっともと存じます。
殿方は、帳簿を、軽んじます。お屋敷の殿方は、なおさらでございます。けれど、紙は残ります。残った紙は、いつか、読める者の手に、届きます。
三十年でも、五十年でも。
読める者が、ヴェッセルの敷居をまたぐ日まで、お預かりいたします。
どうか、お体を、お厭いくださいませ。
湯は、熱——』
下書きは、そこで、切れていた。
最後の字は、書き損じて、墨で、消されていた。
湯は、熱いうちに、とでも、続けるおつもりだったのか。
お祖母様の手紙の終わりは、いつも、お体のことと、お茶のことだった。
わたくしは、その紙を、長いこと、見ていた。
お約束の品。
お預かりした、紙。
帳面の、いちばん静かな場所。
わたくしは、ばらした頁の山を、見た。
この帳面の、いちばん静かな場所は、どこ?
見返しは、もう、開けた。出てきたのは、この下書き一枚。
下書きは「品」では、ない。下書きは、お祖母様ご自身のものだ。
預かり物の隣に、預かったという覚えを置く。帳簿付けの手だ。品物と、受領の控え。
表紙。
背。
綴じの、奥。
わたくしは、表紙の芯を、調べた。厚紙が、三枚、重なっているだけだった。
背の革を、撫でた。革の下に、硬いものは、ない。
——焦らない。
お祖母様は、三十年、預かり通した方だ。
孫が、糸の切れた晩に、たまたま見つけられるような場所には、しまわない。
けれど「読める者」には、いつか、届く場所に、しまう。
読める者にだけ、届く場所。
わたくしは、ばらした頁を、もう一度、順に、めくり始めた。
今度は、箴言や献立を読むのではなく——頁の数字を、読んだ。
頁の隅の、通し番号。
お祖母様は、几帳面な方だ。全頁に、ご自分で、番号を振っていらした。
一、二、三……
番号は、行儀よく、続いていく。
十五、十六、十七——
十七の、次が、十九だった。
十八が、ない。
破られた跡は、ない。綴じ穴の数も、合っている。
最初から、十八番の頁だけ、抜いて、綴じてある。
綴じる前に、抜いたのだ。帳面が帳面になる前に。
三十年前、この帳面を仕立てたときから、十八頁目は、ここにはいないことが、決まっていた。
十八頁目は、どこかに、ある。
この帳面の外の、どこかに。
そして、お祖母様の最後の頁の言葉が、今夜も、わたくしを見ていた。
『帳簿は、嘘をつきません。最後の一枚まで、お読みなさい』
最後の一枚。
あれは、励ましの言葉では、なかったのかもしれない。
番号の、話だったのかもしれない。
欠けた番号に気づける程度には、読みなさい、という——お祖母様の、最後のお稽古。
『八十六日目。見返しより、下書き一枚。「お約束の品」、お預かりの記述。頁十八、欠番』
わたくしは、ばらした頁を、元の順に揃えて、新しい麻糸で、綴じ直した。
十七と、十九の間を、糸が、静かに渡っていった。
お読みいただき、ありがとうございます。
十八頁目が、最初から、ありません。
次話「旦那様と、燭台」——夜の玄関ホールで、お話があるそうです。
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