第32話:凍結の、解除
ベルトルトさんの「ご返納」は、三日後に、届いた。
革袋に、きっちりと。利息まで、几帳面に計算されて。
返納の覚え書きには、几帳面な字で『帳簿重複分 返納』とあった。
最後まで「過誤」の形は、崩さない。
袋の口の結びまで、几帳面だった。この方の指は、観念しても、雑にならない。
それでも、お金は、お金だ。
幽霊給金の凍結分と、返納と、注文書を直して浮いた分。
三つを合わせると、この家の一月分の利払いに、少し届かないくらいの額に、なった。
二十年の流れの、たぶん、ほんの末端。
それでも、戻った最初のお金だ。
最初のお金の使い道は、大切だ。お金は、最初の使われ方を、家中に覚えられてしまうものだから。
わたくしは、使い道の伺いを、書面にして、執務室へ持って行った。
一つ。使用人全員の給金を、一割、上げること。
一つ。玄関ホールの燭台を、六座だけ、買い戻すこと。
残りは、全部、繰り上げの返済へ。
「……給金は、わかる。返済も、わかる。だが」
旦那様は、二つ目の行を、指で、叩かれた。
「燭台? 飾りだぞ。この時期に」
「飾りでございますわ。ですから、買いますの」
「……説明を求める」
「使用人の皆さんは、この数月、わたくしの検めに、お付き合いくださいました。検めというのは、される側は、疑われている心地がするものですわ。給金が一割上がっても、心地までは、晴れません」
「————」
「玄関の燭台は、この家が痩せていく姿の、いちばん目立つ印でした。皆さん、毎日、あれを見て、勤めていらしたのです。その燭台が、六座、戻る。——家が、肥り始めた、という印ですわ。印は、数字より、人を励ますことがございますの」
旦那様は、しばらく黙って、それから、署名なさった。
「……母が」
署名をしながら、ぽつりと、仰った。
「母が、よく言っていた。『玄関の灯りは、家の顔だ』と。……父が、燭台を売り始めたのは、母が死んだあとだ」
それきり、何も仰らなかった。
わたくしも、何も、伺わなかった。
帳簿に書かない話は、急かさない。利息も、付けない。
ただ、署名の文字が、いつもより、少しだけ、ゆっくり書かれたのを、見ていた。
燭台は、週末に、届いた。
銀の、六座。
古いものと、よく似た意匠を、町の銀細工師が、探してきてくれた。
届いた木箱を開けたとき、ミーナさんが「わあ」と声を上げて、ドーラさんに窘められて、ドーラさんも、箱の中を覗いて、黙った。
取り付けの日、玄関ホールには、なぜか、使用人が、何人も、用もないのに、通りかかった。
「あら、ドーラさん。お通りがかり?」
「は、はい! その、廊下の、拭き残しが、気になりまして!」
ドーラさんの拭き残しは、燭台の真下に、四半刻ほど、あったらしい。
夕方、灯りが、入った。
十二と、六で、十八。
二十四には、まだ、六つ、足りない。
それでも、玄関ホールは、見違えるほど、明るくなった。
磨かれた床が、灯りの数だけ、光を返した。床は、ずっと、磨かれていたのだ。返す灯りを、待ちながら。
階段の上に、コルネリア様が、立っていらした。
「……ふうん。明るいじゃない」
「ええ」
「……お母様がいた頃みたい、って、ちょっとだけ、思ったわ。ちょっとだけよ」
コルネリア様は、つん、と顎を上げて、行ってしまわれた。
階段を上がる足取りが、いつもより、軽かった。
その夜の夕食の席で、旦那様は、玄関のことに、一言も触れなかった。
ただ、食堂へいらっしゃるとき、ホールで、一度だけ、足を止められたと——拭き残しの気になるドーラさんが、教えてくれた。
長いこと、見上げていらしたそうだ。
十八の灯りを。あるいは、灯りの中の、誰かの面影を。
その晩、ミーナさんが、お茶を運びながら、声をひそめた。
「奥様。あの、あたし、また、見ちゃったんですけど」
「あら。今度は、何かしら」
「クラム様が、昼間、西棟の方へ。……お部屋の前まで行って、入らないで、戻ってらしたんです。鍵は、なくしたはずですよね? なのに、扉の前で、長いこと、立ってらして」
入らないで、戻った。
帳簿を取り上げられた方が、巣の前まで行って、入らずに、戻る。
見張られている、と、わかっていらっしゃるのだ。
動けば、尻尾が出る。動かなければ、巣に近づけない。
二十年で初めて、あの方は、ご自分の帳簿に、手が届かなくなった。
『八十三日目。燭台、十八。給金、一割増。西棟の扉の前に、入れない人がお一人』
玄関の灯りは、家の顔。
家の顔が、明るくなった分だけ、どこかの暗がりが、狭くなっていく。
お読みいただき、ありがとうございます。
玄関に、灯りが六つ、戻りました。
次話「お祖母様の、二冊目」——家政帳の綴じの奥から、古いお手紙が出てまいります。
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