第31話:管財人の、過誤
ロルフ商会の明細は、三日目に、届いた。
十日の期限を、待つ気力も、なかったらしい。
玄関で白状しかけた商人は、降りる口実を探す側に、もう、回っていた。
六年分の「預かり」の一覧。
差額は、ドルン両替商を経由して、指定の先へ送られていた、とある。
指定の先の名は、書いていない。商人の、最後の用心だ。
沈む船から降りても、海の主の名前だけは、言わない。それが、商人の生き残り方というものだ。
それでも、十分だった。
商会の明細と、屋敷の帳簿と、樽の在高表。
三枚並べれば、屋敷の帳簿だけが、音を外して歌っていることは、誰の耳にも、わかる。
翌朝、事務室に、三人で、入った。
旦那様と、わたくしと、立会人としてのヴィムさん。
立会人は、家の中でいちばん古く、いちばん帳簿に関わりのない人。それが、検めの作法だ。
机を挟んで、ベルトルトさんは、いつもの完璧なお辞儀で、わたくしどもを、迎えた。
事務室の紙の山は、今朝も、一枚も、はみ出ていなかった。
「クラム」
旦那様が、三枚の紙を、机に、並べた。
「ロルフ商会の納品の帳簿。六年で、これだけの差額が出ている。帳簿を預かるのは、お前だ。説明を、聞こう」
ベルトルトさんは、三枚を、ゆっくり、読んだ。
焦りも、震えも、なかった。
読み終えて、あの方は、深々と、頭を下げた。
「————申し開きも、ございません」
お認めに、なった?
いいえ。
わたくしは、続く言葉を、待った。この方が、この程度の紙で、降りるはずがない。
「監督不行き届き、と申すほかございません。納品の検めは、下男頭に任せきりにしておりました。ロルフ商会の旦那が、それをよいことに、量を偽っておったとは……二十年のお付き合いに、甘えました。帳簿は、商会の納品書のとおりに、付けるしかございませんもので。偽の納品書を渡されれば、帳簿も、偽になりまする。すべては、わたくしの、確かめを怠った罪。——この職、お返しいたす覚悟も、ございます」
お見事。
全部を、ロルフ商会に、載せ替えた。
帳簿は納品書から書く。納品書が偽なら、帳簿の偽は、書いた者の罪ではない。
筋が、通っている。帳簿付けの筋としては、完全に。
そして、職を賭ける、と先に言うことで、こちらが職を奪えば「覚悟の士」に、奪わなければ「お咎めなし」になる。
どちらに転んでも、あの方の二十年は、傷つかない。
三日で、ここまで組んでいらした。明細の届く早さまで、読みの内だったのかもしれない。
旦那様が、わたくしを、ちらりと、ご覧になった。
ここからは、家政の領分、ということだ。
「クラムさん」
わたくしは、四枚目の紙を、机に置いた。
「では、これは、どう読めばよろしいかしら。屋根の修繕の手間賃。家政帳に一度、給金台帳にもう一度。同じ職人、同じ屋根、同じ月。——納品書のない支払いが、二冊の帳簿に、二度、載っております。これは、ロルフ商会の偽でも、下男頭の怠りでもございませんわね。二冊とも、あなたの手の帳簿ですもの」
初めて、間が、空いた。
三つ数えるほどの、間。
あの方にしては、永遠に近い長さだった。
納品書の壁の、裏に回られたのだ。商会のせいにできる嘘の、できない嘘を、出された。
「…………それは」
「それから、これも」
五枚目。コルネリア様の、衣装費。
「ドレス一着が、二着。靴一足が、二足。仕立屋の請求書は、こちらに揃っております。十六歳のご令嬢のお召し物から、抜かれたお金は、どの納品書のせいに、なさいます?」
事務室は、静かだった。
ヴィムさんが、身じろぎもせず、立っていた。
旦那様の目が、机の上の五枚から、一度も、離れなかった。
ベルトルトさんは、五枚の紙を、もう一度、端から、読み直した。
時間を、稼いでいるのではない。
読みながら、得意のそろばんを、弾いている音が、聞こえるようだった。
どこまでが、言い逃れられる帳尻か。どこからが、認めるしかない赤字か。
二十年で初めての、損切りの算段。
やがて、あの方は、顔を上げた。
「————数字の上では」
静かな、声だった。
「数字の上では、わたくしの過誤で、ございます」
「過誤、ね」
「帳簿付けの過誤。重ねて付けました行の、検めの怠り。……お詫びのしようも、ございません。重複の分は、わたくしの蓄えから、お返しいたしまする。利息も、お付けして」
過誤。
盗み、とは、言わない。
そして、お返しする、と言う。返す人間は、盗んだ人間ではない、という理屈の形に。
言葉とは、便利なものだ。同じ重さのお金が、盗みの賠いにも、過誤の訂正にも、なる。
旦那様が、何かを仰ろうとした。
わたくしは、机の下で、そっと、旦那様の袖に、指を、触れた。
まだ、です。
ここで「盗み」と言えば、あの方は、職を返上して、王都へ消える。
三冊目の帳簿と、二十年の流れの全部を、持って。
盗みの名を呼ぶのは、名を呼んでも逃げられない形ができてから。
「……承知いたしましたわ」
わたくしは、にこやかに、申し上げた。
「過誤、でございますのね。では、過誤の常で、まいりましょう。重複分のご返納と——帳簿の付け方を、改めます。本日より、家政帳と給金台帳は、わたくしが付けます。クラムさんには、これまでどおり、お支払いと、債権のお務めを。付ける手と、払う手を、分けますの。過誤は、手が一つだと、起こるものですから」
ベルトルトさんの目が、わたくしを、見た。
長い、長い、一瞬だった。
帳簿を、取り上げられる。
それが何を意味するか、この方ほど、わかる人はいない。
今日から、新しい嘘は、書けない。書けるのは、わたくしの手だけ。
二十年の古い嘘だけを抱えて、あの方は、出口のない蔵に、入った。
そして、過誤と認めた以上、この沙汰を、拒む筋が、ない。職を賭けると、ご自分で仰った直後では、なおさら。
あの方の組んだ守りの形を、そのまま、錠前に使わせていただいた。
「……かしこまりました」
お辞儀の角度は、完璧だった。
「奥様の、仰せのままに。——本当に」
顔を上げたとき、あの方は、笑っていらした。
「本当に、よく、お出来になる。マルガレーテ様の、お孫様」
今度は、口が、滑ったのでは、なかった。
わたくしの目を、まっすぐに見て、仰った。
知っている、と、教えてくださったのだ。
こちらが、誰の孫か。
あちらが、それを、いつから知っていたか。
宣戦のお返しに、しては、上等すぎる一手だった。
『八十日目。帳簿、わたくしの手に。過誤、認めさせ半分。祖母の名、二度目——今度は、わざと』
お読みいただき、ありがとうございます。
帳簿が、ついに、奥様の手に移りました。
次話「凍結の、解除」——浮いたお金の、使い道のお話です。
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